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part1&2・泡影叢書

立海日常的掌編および短編

part1

part3・6日間の休暇

ゲーム「テニスの王子様ドキドキサバイバル」ベースの連作

part3

廃墟庭園

「高軌道幻想ガンパレードマーチ」の世界観に基づくパラレル長編と番外編

廃墟庭園
平たく言えば巨大ロボ系SF戦争学園物・ダーク傾向/特殊設定に注意
 R-18(G)  
*信仰告白は柳生幸のR-18*

グランロマン

「浪漫爛漫」から着想したタカラヅカ歌劇団風パラレル長編と番外編

グランロマン
まさかの柳生幸の割に、真幸とか柳幸とか8←2とかの混戦傾向。
 一部R-18   
*幕裏は真幸のR-18*

家族の肖像

アニプリ「青春一家」に触発された立海家族パラレル

家族の肖像

part1・泡影叢書


あばたも

 珍しく早く部活が終わった。
 とは言え大会前のこの時期、毎日の練習だってもっと長く続けたい、な〜んて思ってるときに、喜んで帰る事ができるはずもない。それは部員全員共通の思い、ってやつだろうと思う。
 部室に戻ってきたのは新しいタオルが必要だったからで、あ、あとついでに丸井先輩から頼まれた真田副部長には内緒のおやつ? 先客がいるとは思わなかったから一瞬マジビビった。しかもそれが柳先輩で、既に着替え始めの帰り支度真っ最中だったんだから、俺が驚くのもムリはないっしょ?
 当然、柳先輩は可笑しそうに軽く口元をほころばせて、「そんなに意外か?」なんて話しかけてきた。モチロンモチロン。でも着替えの手を休めようとしない…ってことは、何か急いでるんスね?思ったことをそのまま口に出したら、柳先輩はますます“にこにこな感じ”になった。あんま、表情の読めない人だから解りにくいけど、あら??もしかして、スッゲーご機嫌なんスか?珍しーモン、見ちゃったかも。
 ちょっぴりカンドーしてると、慌ただしい足音が近づいてきて、次の瞬間、俺はもっと珍しいものを見ることになった。
 焦 る 真 田 副 部 長 ! !
「すまん蓮二!遅くなった」 「うん、少し急いだ方がいいな」
 副部長が俺をチラリと横目で見たけど、やっぱり急いでるみたいで何にも言わなかった。へ〜、副部長も今日はお帰りってことッスね?柳先輩の方はきちんと着替えを終えて、ブラシ…じゃねぇや、櫛っつーの?いつも持ってるアレで髪を整えてる。キレイなストレートの髪。いいなぁ…うらやましいッス!そう言えば、いつも帽子で隠れてるからわかりにくいけど、真田副部長もキレイな髪してんだよな〜…
 俺のセンボウの視線を感じたのか、柳先輩が櫛を持ったまま俺に近づいてきた。「赤也はもう少し、髪を何とかすべきだな」なんて独り言をつぶやくみたいに俺の頭に櫛を入れる。けどねぇ、俺のこの癖っ毛はそんなヤワそうなもんじゃどうしようもないです、って。何度か試したあと、さすがの柳先輩も匙を投げた。
「でへ、すみません。俺も困ってるんすよね〜、この癖っ毛。せめて幸村部長みたいな癖っ毛だったらまだよかったかもしんないですけどね」
 俺がそう口にした瞬間、明らかに周りの空気が変わった。真田副部長はネクタイを締めかけていた手を止めて、何とも複雑そうな表情、う〜ん、驚いた、の、か怒ってるのか、それとももっと別の感情なのか、とにかく名状しがたいけど歓迎しちゃいないのはありありって顔で俺を凝視し、柳先輩は柳先輩で少しの驚きと大半の“可哀相に”って感じの表情を浮かべて立っていた。こっちの方はちょっと覚えがある。去年の2学期の中間テスト、あれの結果を先輩たちに知られたときの柳先輩の顔にそっくりだ。チクショー、ヤなコト思い出しちまったぜ。
 え?でも、何で?俺は混乱した。
 何か言いかけた副部長を軽く手で制し、柳先輩が口元だけで笑いながら俺に向き直った。この人が心から笑ったところなんて見たことないけど、それでも、いつもよりな〜んか迫力あるんスけど!?
「赤也は何か勘違いをしているようだな」
 静かな物言いが余計怖いっス!!これなら真田副部長に殴られた方がまだマシ??
「精市のあれはな」
 セイイチ!!セイイチって誰だっけ!?あ、ブチョー!!
「捲き毛というのだ。」「うむ、たまらん」
 はぁ!?
 絶句したね、いやホント。
 きっぱり言い切った柳先輩も間髪入れずに同調した副部長も、それより何より意味がわかんねえっての!!
 でも果たしてそれを口に出してもいいのかどうか、って考えると、なんか、ぜってーダメな気がする!!
「いかん、遅れる可能性が出てきたぞ」
 凍った時間を再び動かしたのは柳先輩だった。さっさとバッグを担いで、俺のことはもう構ってくれそうにない。
「夕食は18時からのはずだろう」
 言いながらロッカーの扉を閉めた真田副部長は、「早く着くに越したことはないがな」と付け加えて帽子を被り直すとふっと表情を緩めた。うひゃ〜!!今日は一体何なんだ!?
「時に蓮二、物は相談だが…」
「弦一郎、あのケーキ屋なら駄目だ。今日は時間をロスしすぎる。駅前のにしておけ」
 柳先輩、ぴしゃりと言い切った!!「…そうか」なんつって軽くヘコんだ副部長は、でもすぐ立ち直ったみたいだ。
「では俺たちは先に行かせてもらうぞ、赤也」
 いつもみたいに無駄にエラそーな言い方で俺に向かって頷いてみせると、さっさときびすを返して出て行った。「またな」と柳先輩も静かな足取りで後に続いて、俺は一人取り残された。
 …あ〜…っと、つまり今日は幸村部長のお見舞いに行くってことッスね。そーいや、部長の嫌いなモンがメニューに出る日には、どっかの料亭で仕出し弁当を作らせて持ってくっつーか、3人で一緒に食ってるとかいう噂も聞いたなぁ。出どころが仁王先輩だからアヤしいモンだけどさ。
 それにしても。
 部長が“捲き毛”で俺は“癖毛”ってのは、な〜んか納得いかねえんだけど!!??
 確か、こういう時に使う表現があったような気がする。
 諺っていうんだっけ?
 何て言うんだったかなぁ…

 ついつい本気で考え始めちまった俺は、待ちきれなくなって部室に来た丸井先輩にさんざん文句を言われることになった。
 諺は、結局思い出せなかった。大体誰かに聞いてみようにも、何て説明すりゃいいんだよ、こんなこと?
 …ったく、今日は厄日か。


唯識(仮)

 深い夜の眠りの水底に沈んでいてもなお、鮮やかに心に響いてくる音色がある。真田にとってその曲は特定の人物と強く結び付いた上で記憶に刻みこまれているから、意識は半ば濁っていたが条件反射のように、軽やかな4分の3拍子を鳴らして自分を呼ぶ携帯電話を探し当てた。


 開口一番の「遅くにすまないが」という幸村の言葉は単なる挨拶代わりであって決して意味のあるセンテンスではない。それを知悉する程度には繰り返してきた営為。布団の上でもぞもぞと居住まいを正しながら、次の言葉を待つ。
「困っているんだ。意見を聞きたい」
「………またナメクジか?」
 確かこの前はそんな話だった、と思いながら真田は右手で両目を擦った。そう、草木も眠る丑三つ時、真面目でいたいけな男子中学生が二人、丹精したベゴニアの鉢に大量発生したナメクジ駆除方法について議論すること小一時間。シュールだ。しかしそもそも真田は“ベゴニア”の何たるかすら知らないのだから、相談を持ちかけた方にも根本的な誤りがある。そういえば、その後の経緯は一向に聞かない。
「そんなはずないだろう。もっと切実に困っている」
「………うむ」
 それは困った、と真田はぼんやり思った。幸村が困っていると、もれなく真田も困ってしまう。その事実と、だがその逆の事象は成立しないというもう一つの重要な事実こそが、彼の最大の弱点だと言える。
「蓮二風に言えば、俺は今、コミュニケーションにおける言語の限界と脆弱性を改めて認識し、更に言語という観点から見た世界の在り様についての考察を巡らせている最中だ、というところだな」
 幸村の淡々とした声が、真田の覚醒しきらない意識の表層をするりと撫でて流れ去った。解ったのは、確かに蓮二はこんな風に持って回った言い方をするということだけだ。
「………参考までに聞くが、おまえ自身の言葉でそれを簡潔に表現するとどうなる?」
「今夜は月がよく見えた。そのうちに世界に本当に存在するのは名詞と動詞だけではないかと思い始めた」
「………そうか」
 聞いた俺が馬鹿だったという台詞は辛うじて呑み込むことに成功したが、さて、こんな場合に一体どんな言葉をどう返すべきか。逡巡する暇すら与えてはもらえず、なぁ、真田、と幸村が静かに名前を呼ぶ。
「名前が付けられないものは、結局、ないと思うか?」
「いや」
 その問いへの答えは自然と口から滑り出てきた。巧くは言えないが、そういうものでもないだろう。ものの名前に限らず、たとえ百万語を費やしても言葉で言い表せないものは確かにあるに違いない、と。
「うん、それならよかった」
 幸村の声が満足そうに緩んで聞こえる。
「なにしろ色々と探してみたが、どうしてもしっくりくる言葉が見つからなくて困っていたんだ。そうこうしている間に、それが本当にあるのかどうかも疑わしくなってしまった」
「ほぅ。何を言いたかったんだ?」
「だから、それを説明する言葉を探していたって言っただろう。うまく言えない。微妙だからな。でも、いい。それがちゃんとあるのなら」
 迂闊な問いを発した真田だったが、幸村は依然として御機嫌の体でそう返して寄越した。もう一歩前進してもよさそうだと判断して、真田はもう一つ問いを発した。
「どこにあると?」
「あぁ、勿論、俺の中に」
「………」
 また訳が解らなくなった、と真田がじんわり暗い気分になったのを見透かすかのように、電話の向こうから幸村の微かな笑い声が聞こえる。本当を言うと、物凄く単純な言葉に意訳できないこともないんだけどな、と秘密めかした小声が囁く。だけど嫌になるくらい単純で気に入らない。あくまで意訳だぞ、と念を押して続けられた言葉は確かにあまりにもシンプルで意味の違えようもなく、真田から眠りを遠ざけた。



「“君を愛している”―多分ただそれだけのことだ。おやすみ」


冬薔薇/Y

 病棟の時間は緩慢に流れる。ぽたりぽたりと一定のリズムで落ちていく点滴の薬液が時計の秒針代わりだ。どこか澱んだような時間の流れ。かと言って、沼のように物憂い静寂ともまた程遠い。たとえ会話が途切れても、ざわついている廊下からは間断なく誰かの話し声が部屋に入ってくる。病室の薄いドアはもとより患者たちのプライヴァシーを守るためにあるわけではない。子供たちの甲高い声が多いのはこの階が小児病棟だからだろうが、これでは精市の気も休まるまい、と柳が思った瞬間に真田が腰を上げた。仏頂面を隠しもせずに、そのまま無言で病室を出て行く。見舞いに来る度に平時とは打って変わった落ち着きのなさを見せる真田だったが、今日はまた最短記録を更新したようだ。要因はいくつかあるだろうが、柳の見たところ最たる原因は幸村の腕に突き刺さった点滴の針、いやむしろそこから染み出した血の付いたガーゼだと思われた。真田は別段血を見るのが苦手だということはなかったはずだが、見慣れたちょっとしたかすり傷だの切り傷だのに因る出血とはさすがに受ける印象が違うのだろう。もとより情の深い男だ、自分の痛みよりも仲間の苦痛の方に心を痛めるきらいがある。
 閉じられたドアを眺めやって、幸村は僅かに唇を笑みの形に動かした。
「真田は優しいな」
…解っているのだ、ちゃんと。
「優しい男が好きか?」
 揶揄する気持ちが9割強、残りは、認めたくはないがおそらく嫉妬。自分は間違っても優しくない。その自覚は時折訪れては柳を悩ませる。そしてその度ごとにどれだけ真田を羨ましく思うことか。
 柳の言葉に幸村は笑うでもなく、そうだなぁ、と天井を見上げて、
「優しくないよりは優しい方がいいだろうなぁ」
と気だるげに呟いた。

 ゆっくりゆっくりと落ちてチューブを流れていく黄色く透明な薬の滴り。陰鬱に古びたリノリウムの床。枕元に飾られた一抱えほどもある薔薇の香でも消し去ることのできない消毒液の匂いがふとした瞬間に鼻に付いては気を塞がせる。
 そんな環境の中では楽しい話題を選ぶのもなかなか骨が折れる仕事だった。ただでさえ当たり障りのない話をするには頻繁に顔を合わせ過ぎている。これまでも学校で或いはテニスコートで毎日のように一緒にはいたが、その時のようには気楽にも話せない。互いに互いの腹を探りながら幾重にも薄いガーゼでくるんだ花の球根でキャッチボールをするようなものだ。決してそこから芽は出ず当然のごとく花も咲きはしない。
 結局のところ、柳はベッドの脇の椅子に陣取って持参してきた小説を一人で読みながら時々幸村の話しかけてくるのに一言二言の言葉を返してやる程度のことしかできないのだった。決して病室を出て行った真田を責めることなどできない。本質的には彼と同じだ。どちらの態度も一般的に言うなら見舞いとは呼べないのかもしれないが、少なくとも幸村はそれでも充分だと思ってくれているようだということだけが救いだった。


 ふっと目を上げるといつの間にか点滴の残量が空になりかかっていた。
「点滴、終わりそうだ」
 声を掛けると、天井を見つめたまま考え事でもしている風だった幸村は曖昧な表情で頷いた。
「コールボタン押してもいいか?」
 続けて聞くと、ほんの僅か表情が和む。
「興味津々って顔してるな、蓮二」
「なにしろ一度押してみたかったからな」
 殊更まじめな顔を装って言う。狙いが当たって、幸村の顔は柔らかく再び微笑んだ。

 慣れた手つきで空のパックを取り外した看護士はすぐさまそこに新しいものを付け替えた。流れるような自然な動作で。幸村は何の関心もなさそうに、作業の間中また天井を眺めていた。こうなることを、もちろん知っていたのだ。そう思い至って、柳はさっき点滴が終わったことに一瞬安堵した自分を恥じた。決して幸村の苦しみや悲しみを解ってやることはできないのだ。本当には、何も。

 ガーゼに染み付いた血は既に褐色に変わって干からびていた。まるで枯れて褪色した花のようにも見える。昔は、そう、確かに華やかな生気を纏った紅だったはずの。たとえばアネモネ、たとえばアマリリス、たとえばグラジオラス、たとえば…
 いややはり彼なら薔薇だろうか。とりわけオールドローズの一群、あの柔らかくうつむき加減ではにかんだように咲く、優しい色調の花びらの丸い重なり。
 今は無残に傷ついて、それでもなお花をつけることを忘れない樹。たとえそれがどれほど小さい花であろうと花は花だ。薔薇だ。

 どうせならガーゼも替えてやればいいのに、と苦々しく思いながら新しい点滴のパックを見上げた。薬液の落ちる速度は先程までとまったく変わらない。振り出しに戻る…か。ふとそんな風に感じてどうしようもない徒労感に襲われた。出掛かった溜息をすんでのところで噛み殺しながら平静を保ったように見せ掛けるのは少々骨が折れた。その努力もどこまで報われているのか定かでない。幸村には人の隠しておきたいことを感じ取る洞察力がある。その上で何も見えていない振りをするだけの演技力も。本当の意味で“聡い”というのはきっと彼のような人間のことを言うのだ。そして、自分は一生その境地には辿り着けない。それは必然だ。


 真田にメールを打つ。今頃どこをふらついているやら定かではないが自分を置いて帰ることはあるまい。ややあって戻ってきた返事で彼の居場所が知れた。自分が行くまでそこを動くなという内容のメールを作りながら「弦一郎は裏庭にいるらしい」と伝えると、幸村は怪訝そうな顔をした。
「裏庭?真田が?それ、珍しい組み合わせだなぁ…」
 裏庭、真田、裏庭には真田、と繰り返して、突然「うらにわにはにわにわとりがいる」と早口ことばをのんびりと唱えた。どこか既視感を覚える、実に“彼らしい”反応だ。
「弦一郎のような雄鶏なら、さぞ高らかに時を告げるだろうな。近所迷惑だ」
 ややほっとした気持ちでそう返すと、幸村もさっきまでとは全く違った屈託のない表情で、笑った。

 ぐるりと首にマフラーを巻きつけて立ち上がったところで幸村は自由な右手を力なく振った。
「おつかれ」
「何も疲れてなどいない」
 本心からそう答えて柳は幸村の枕元に歩み寄った。かがんで、ほんの僅かためらいはしたが、幸村の額に掛かる前髪をそっとかきわけてそこに唇を落とした。幸村はふふふと笑い、そして小さく、だがはっきりと言った。
「蓮二は優しいな」
 一瞬からかわれているのか、と思ったがそうでもないらしい。幸村の瞳は温かく自分に向けられていて曇りはない。直感で本質を見極める目だ。柳は自分にはないその力を認め高く評価していたが、放たれた言いぐさはあまりにも意外で俄かには受け入れがたいとしか言いようがなかった。
「優しい?俺が?」
 思わずそう鸚鵡返しにした言葉に紛れもない動揺の響きが混じったのを自分自身で感じ取って、柳は更に落ち着きを失った。ハプニングやアドリブの類は得てして苦手だ。だからこそ、そういう事態に遭遇しないよう日頃から知識と計算とで鍛えた堅固な鎧で重武装している。防御は完全だと自負していたはずだというのに、幸村にはそれが通用しない。
 いくら強固な鎧にも継ぎ目はある。その僅かな隙間を通して知らず知らずのうちに染み透っては身を濡らす霧か、それともほんの小さな継ぎ目を狙って刺し貫いてくる毒の針。敢えて平和的な言い方をすれば、かの童話、『北風と太陽』の太陽でもあるだろうか…けれど十中八九この太陽は、旅人が外套を脱ぎ捨てても容赦なく彼に熱を放射し続けるだろう。“面白いから”とでもいう理由で。いずれにせよそれが幸村だ。いっそ柳の手には負えない。だが、恐らくはそれゆえに、…惹かれる。
「あぁ、優しい」
 戸惑う柳の目の前で、ふわりとした微笑が花のように開いて先程と同じ言葉を紡いだ。ゆっくりと白い手が伸び、そっと頬に触れてくる。馴染みのある感触、しかし覚えているよりも柔らかく冷たい気がする。何故か?それを詮索するのはいけないことだ、と柳の中で何者かが叫ぶ。普段なら気付きもしない、もしくは無視するであろうその声に従って柳は思考を中断し、代わりにもう一度唇を落とした。今度は幸村の唇に。こちらも記憶とは違っていた。乾燥して荒れている…
「………また来る」
 言うべき言葉はそれ以外に出てこなかった。幸村は静かに頷いた。何もかも、解った風情で。


 次の機会にはリップクリームを忘れずに持参せねばなるまい。可及的速やかに、だ。どうせだから弦一郎にも参加させてやるとしよう。ドラッグストアにでも買いに行かせるか。その思いつきを“最重要事項”として記憶に刻み込みつつ、柳は薄暗い昼下がりの廊下を抜けて外を目指した。


匣の中の二月

 バレンタインに贈られたギフトは母に見せるのが慣例だった。それこそバレンタインデーという行事の意味もよく解らないような、ずっと幼い頃から。
 だが柳生は初めてその習慣を破った。駅での別れ際に仁王から押し付けられた、その一個だけを通学鞄の奥深くに隠して。

 上品な艶のあるモスグリーンの紙で包まれた箱は、ちょうど両手にぴったり乗るくらいの大きさ。高さも結構ある。文庫本が縦に入りそうだ。ややオレンジのかった薄いクリーム色のサテンのリボンと、シルバーグレイのシフォンリボンが重ねて掛けられている。見るからに気合いの入った包装だった。
 柳生は片付いた自分の机の上に包みを置いて、しげしげと眺めた。仁王は何のつもりでこれを自分にくれたのだろう。あの時の光景は、はっきりと目に焼きついている。
 電車のドアが閉まり始めたちょうどそのタイミング、まるで手品のように取り出され、自分の手に押し込まれた緑の箱。
 はっと胸を衝かれたような気がしたのだ。理由は解らないまま。何か言わなければと焦って顔を上げた目の前で、ホームの仁王は笑っていた。ガラス越しにも晴れやかなその表情、軽やかに振られた手、動き始めた電車と遠ざかっていく彼の姿。
 我に返ってまず一番にしたことは、受け取った包みを鞄に入れることだった。一番奥に。他の何よりも下に。―多分、無意識のうちに。

 リボンを一本ずつ、そっとほどいた。光沢としっかりと厚みのある上質な包装紙も丁寧にはがした。現れたのは蓋付きの布箱だった。クラシカルな英国風の果物柄の蓋、箱本体は落ち着いたトーンの濃緑。一目見て手が込んでいると解る代物だ。普通ではない。とても。
 躊躇しながらも、柳生は蓋に手を掛けた。
 開けた。
 中に入っていたのは、やはり、箱だった。

 箱の中にまた箱。一回りずつ小さくなっていくサイズと蓋と本体の布は違えども、開ける度に箱が出てくるという事実は同じだ。大きな机の上はいつの間にか空箱に占領されていた。
 だが柳生は根気強く箱を開け続け、遂にその時はやってきた。箱の大きさはいつしか人差し指に乗るほどのものになっている。おそらく最後の箱だ。
 柳生は一旦手を止めて、箱が並ぶ机を見回した。たくさんの模様、たくさんの色、規則的な形。一体これは何だろう。
 チョコレートなのだとばかり思っていた。今日は2月14日だから。いかにもそれらしい外装だったし。それに―
 もしかすると、という気持ちがまったくなかったといえば嘘になるからだ。
 特定の相手に向ける好意以上の何か、静かにくすぶる熱。仁王からは時々、自分の中に眠っているのと同じ、そんな感情の揺らぎを感じるように思うことがある。
 だが違ったのか。こんなに小さな箱に入るチョコレートがあるとは思えなかった。考えすぎ、思い違いか―だとしたらなんて間の抜けた話だろう。
 半ばほっとしながら、そして残りの半分で軽い自己嫌悪を感じながら、親指と人差し指とでストライプ柄の小さな蓋をつまみ上げた。
 今度は“中身”が入っていた。小さな箱にちょうど収まる大きさのチョコレートが、一粒。
 不意打ちを食らった気分だった。或いは―ペテンにかかったような。

 暫くの間、柳生は小さな楕円の球形を見つめていた。そしてたくさんの箱を。仁王が何を思ってこれ、いや、これらを自分に渡したのかはやっぱり解らない。解らないが、それでも、
「お返しが大変そうですね」

 珍しくそんな風に独り言を呟いて、最後の箱からチョコレートを取り出した。掌の上で転がすとなめらかな表面が蛍光灯の光を照り返して輝いて見える。そして柳生はそのままチョコレートを口に入れた。ゆっくりと融けてじわじわ広がる甘み、カカオの香りとミルクのコク―中から現れた何かの種子のような固いもの。味は…?しないようだ。
 一瞬迷ったが、覚悟を決めて奥歯で噛み砕いた。途端に走る心地よい苦味で正体が知れた。コーヒー豆だ。コーヒー豆をチョコレートでコーティングした菓子だったわけだ。なるほど、それならばこの大きさ、もしくは小ささも納得がいく。
 固い豆を噛み潰しながら、柳生はもう一度、並んだ箱を眺めた。きっとその一つ一つがハンドメイドなのだろう。あの一粒を入れるために、仁王はチョコならず“箱を手作り”したのだ。そう思って改めて見ると、いっそ壮観だった。
 仁王の意図ははっきりしないままだが、先手を取られた、どうやらそれだけは間違いなさそうだ。ならば尚のこときっちりと“お返し”をしなくてはならない。なかなか高いハードルのようだが、チャレンジしてみる甲斐があるというもの。

―でもそれを考える前に、まずは明日、お礼を言わなくては。びっくりしたと正直に告げたらどうだろう、仁王は喜ぶだろうか。

 そんな風に思いながら、柳生は一番小さな箱に手を伸ばした。全ての箱をきちんと元通りに入れ直すために。


陰 翳

   ひそかに思い描いていた目標は実現できずに終わった。
   心にも体にも疲労感を覚えながら、幸村はベッドに横たわって白い天井を眺めた。窓から入ってくる午後の陽射しで、明るい部分と暗い部分とが鋭くくっきりと分かたれている。
   俺は今、影の方にいる。
   ぼんやりとそう思った。
   一番悪かった時よりは確かに良くなって来ている。今日はちゃんと歩けた。歩行訓練用のバーに捕まりながらだったが、自分の足で歩いたことには変わりない。焦っちゃダメだ。この前までは、立つこともできなかったんだから。
   幸村は自分の成果に満足しようとした。
   だがあまりうまくはいかなかった。本当は、今日、一時退院したかったのだ。それが一番の目標だった。そして学校に行きたかった―皆とそこで会いたかった。
   天井の、光の当たって明るい部分に目を移したら溜息が出た。同じ天井なのに全然違う。
   皆のいるところはあっち。
   俺はこっち。
   また溜息が出そうになったので、幸村は重い体を何とか動かして寝返りを打った。光の入る窓に背中を向けるように。
 
   誕生日を病院で迎える確率は意外に高いものだ、と雛あられを持って来てくれた柳が教えてくれたのは一昨日のこと。それが真実なのかどうかはよく解らなかった。一人の時間が長いと人を見る勘も鈍る。悲しいことだが。でもこれだけははっきり解った。もし自分がその説に強硬に異を唱えようものなら、来たる爽やかな五月の下旬に謎の腹痛か何かで病院にやってくる人物が出るかもしれないと。
   その光景を想像すると、幸村は少し愉快な気分になった。
   真田は嘘など吐けない。仏頂面で「腹が痛い!」と棒読みで主張するのか、それとも思い切りそわそわした怪しげな態度で言うのか、どっちだろう?当然、柳が付き添ってくるのは間違いない。無表情の物知り顔で、大根役者のフォローに余念がないだろう。たとえば―
「部活で大事な大会を控えているので念の為に入院させて様子を見てくれ」
   とかなんとか。応対する看護士が目を白黒させる姿までがありありと目に浮かぶ。見ものだ。いっそ実現すれば面白いのに。
   幸村は枕を抱えながら一人でくすくすと笑った。
 
 
 
   そこにたくさんの足音が聞こえてきた。そのうち二つの足音が絡み合いながらペースを上げて近づいてきて、この部屋の前で止まった。
「おっし、俺、一着!ほら、早く早く!」
「ちぇっ、2番スか。まぁいいや」
「お前たち…!」
「真田君、我々も急いだ方が」
   ドアのすぐ向こうで二人分の声。少し離れた廊下の左の方からやっぱり二つの声が追いかけて来る。どの声にも勿論心当たりがあった。そして近づいてくる足音はもっとたくさん。幸村はぱちぱちと忙しなく瞬きをした。
   誰かが来てくれればいいな、とは思っていた。誰か一人くらいは―多分真田と柳くらいは来てくれるはずだと甘えたことを考えてさえいた。でも本当は皆と会いたかった。誕生日なんだからというのを笠に着て呼びつけたいとまで思っていたほど。
   毎日誰かは欠かさずに顔を出してくれる。それにはとても感謝している。それでもせめて今日だけは、以前のように皆の揃った顔を見たかった。できればテニスコートで。たとえその後、会う前よりももっと寂しくなることが解っていたとしても。
   望みが叶った。
   幸村の顔に、自然と笑顔が浮かんだ。早春のうららかな陽の光を思わせる微笑だった。
 
   静かにドアが開く音がした。
「あれ?幸村君、寝てるのかもよ?ほら、ベッドの周り、ぐるっとカーテン掛かってんじゃん」
「ほんなら逆に自動的にサプライズ成功っちゅうことじゃ」
「なるほど!そうですね」
「さ…さぷ…?」
「“ドッキリ”ってことだ」
   小声で囁きあう声が五つ。
「日中のリハビリで疲れたのかもしれん。どうする、弦一郎」
「うむ」
   ゆっくりと近づいてくる人の気配。カーテンの重なり部分を探り当てた指が薄いクリーム色の布を揺らした。
   幸村はふっと天井を見上げた。まだ長くは地上に留まらない春の太陽は、さっきまでの光と影の境界線を大幅に書き替えていた。今はもう、天井の面積のほとんどがぼんやりとした薄暮のグレーの領域にある。
   俺も皆もここにいる。薄暗いこの影の中に。
   自責の念がちくりと胸を刺した気がした。
   だが幸村はさっきまでの笑顔を崩さなかった。
   すぐに視界に入って来るだろう真田を、そして皆を迎えるために。


唯識(仮)ルー語ver.

 ディープな夜のスリープの水底に沈んでいてもなお、鮮やかに心に響いてくる音色がある。真田にとってその曲はスペシャルの人物とストロングに結び付いた上で記憶にカットファインしこまれているから、意識はミドル濁っていたが条件反射のように、ライトな4分の3タイムをリングしてマイセルフを呼ぶ携帯テレフォンを探し当てた。

 開口一番の「レイトににすまないが」という幸村のワードシンプルグリーティング代わりであって決してミーニングのあるセンテンスではない。それをコンプリートナレッジするディグリーには繰り返してきたビジネス。布団の上でもぞもぞと居住まいを正しながら、次の言葉をウェイトする。
「困っているんだ。オピニオンを聞きたい」
「………またナメクジか?」
シュアこの前はサッチ話だった、と思いながら真田はライトハンドで両目を擦った。そう、草木もスリープする丑三つ時、シーリアスでいたいけなヤングマン中学生が二人、エフォートしたベゴニアの鉢に大量発生したナメクジ駆除メソッドについてディスカッションすること小一タイム。シュールだ。しかしそもそも真田は“ベゴニア”の何たるかすら知らないのだから、ディスカッションを持ちかけた方にもルート的なエラーがある。そういえば、アフターザットの経緯は一向に聞かない。
「サッチはずないだろう。もっとシーリアスに困っている」
「………うむ」
 それは困った、と真田はぼんやり思った。幸村が困っていると、もれなく真田も困ってしまう。そのファクトと、Butその逆のイベントは成立しないというもう一つのインポータントファクトこそが、彼のマキシマムのウィークポイントだと言える。
「蓮二風に言えば、俺は今、コミュニケーションにおけるランゲージのリミットと脆弱性を改めて認識し、更にランゲージというポイントオブビューから見たワールドの在り様についての考察を巡らせているハイトオブだ、というところだな」
 幸村の淡々とした声が、真田のアウェイクしきらない意識の表層をするりと撫でてストリームし去った。解ったのは、シュアに蓮二はサッチ風に持って回ったスピーキングスタイルをするということだけだ。
「………リファレンスまでに聞くが、おまえバイワンセルフのワードでそれを簡潔に表現するとどうなる?」
「今夜は月がよく見えた。そのうちにワールドに本当に存在するのは名詞と動詞だけではないかとシンクしスタートした」
「………そうか」
 聞いた俺がフールだったというスピーチは辛うじて呑み込むことにサクセスしたが、さて、サッチケースに一体ホワットワードをどう返すべきか。逡巡する暇すら与えてはもらえず、なぁ、真田、と幸村がクワイアットにネームを呼ぶ。
「ネームが付けられないものは、アフターオール、ないとシンクするか?」
「いや」
 そのクェスチョンへのアンサーはネイチャーと口からスライドし出てきた。巧くは言えないが、そういうものでもないだろう。もののネームに限らず、たとえ百万語をスペンドしてもワードで言い表せないものはシュアにあるにディッファレンスない、と。
「うん、それならよかった」
 幸村の声が満足そうに緩んで聞こえる。
「なにしろ色々と探してみたが、どうしてもしっくりくるワードが見つからなくて困っていたんだ。そうこうしている間に、それが本当にあるのかどうかも疑わしくなってしまった」
「ほぅ。何を言いたかったんだ?」
「だから、それを説明するワードを探していたって言っただろう。うまく言えない。微妙だからな。でも、いい。それがちゃんとあるのなら」
 迂闊なクェスチョンを発した真田だったが、幸村は依然としてムードの体でそう返して寄越した。もう一歩ドライブしてもよさそうだとデシジョンして、真田はもう一つクェスチョンを発した。
「どこにあると?」
「あぁ、勿論、俺の中に」
「………」
 また訳が解らなくなった、と真田がじんわりダークなフィーリングになったのをシースルーするかのように、テレフォンのビヨンドから幸村の微かな笑い声が聞こえる。トゥルースを言うと、テリブルに単純なワードに意訳できないこともないんだけどな、とシークレットめかしたローボイスが囁く。だけど嫌になるくらい単純で気に入らない。あくまで意訳だぞ、と念をプッシュして続けられた言葉はシュアにあまりにもシンプルでミーニングの違えようもなく、真田からスリープをキープアウェイした。

「“君を愛している”―多分ただそれだけのことだ。おやすみ」

part3・6日間の休暇


07281400

幸村が海側へ行くと決心したのなら、それはもう誰にも覆せない決定事項である。
だから若干弾んだような声で「海風は病後の療養にもなると聞きますし、いい選択だと思いますよ」と柳生が言い、同意を求めるように柳に視線を投げたのも、それを受けた柳が確かにそうだ≠ニ言いたげに頷いたのも、一種の茶番劇だった。
あとは基本的に早い者勝ち≠セ。
「ん〜じゃ、俺も海≠ヒ」
ジャッカルもそれでいいだろぃ、と丸井が幸村を追って即座に名乗りを上げた。俺もかよ!と一応はツッコんだものの、桑原にもさしたる異存はなかったらしい。
「俺も俺も〜!俺も海がいいっス!!」
次に切原が元気良く手を挙げた。その瞬間、真田の眉が不愉快そうにぐぐっと寄った。
「いっそ我々立海は全員で海、ということにしませんか?」
柳生はあまり真田の機嫌を警戒視していない。いつものように鷹揚に構えてそんな暢気な提案をした。切原や桑原にはできない芸当だ。
「だが柳生、それでは山≠ニ海≠フバランスが取れんようだ」
「沖縄と六角、ルドルフに…山吹もかいや。バラけよらん。皆、仲えぇんじゃの」
柳と仁王が周囲の状況を見て、口々に言った。
「それに、俺は山≠ノするけん」
「えっ?」
「俺な、跡部のあのノリにはどうもついて行けん。下に付くのは御免こうむる」
驚いた柳生に、仁王は説明した。その顔はあくまで真面目だ。だが仁王のことだから、どこまで本気で言っているのかはまったく見当が付かない。
「どのノリならついて行けるんだ?」
「っつーか、仁王先輩がおとなしく誰かの後についてくワケないっしょ」
「だよな」
丸井に切原、そして桑原がかたまってひそひそと言い交わす横で、真田と柳、そして柳生はそれぞれに納得したように頷いた。元々氷帝とは少々馴染みが悪い、立海の校風の極右を構成する二人と、幸か不幸か協調性に溢れまくっていつの間にかすっかりテニス部(しかもあろうことか精神的年長部隊)に染まった一名だ。
「それは一理あるな」
「無理はいけませんね」
「ではお前は山≠ヨ行け」
真田は許可を与えた。そして不意に切原に向き直った。
「赤也!お前も山≠セ!!」
「い!?」
「俺も山≠ヨ行く!!」
「えぇ〜っ!!??副部長もっスか!?そりゃない…」
「何か言ったか?」
抗議の声を上げかけた切原は、真田の眼光に射竦められて小さくなった。
「…何でもないっス…」
その様子を指差して笑っていた丸井も物凄い勢いで睨み付けられておとなしくなり、ついでに何もしていない桑原も同じ目に遭ってこっそり溜息をついた。
「お目付け役、というわけだな。いつもながら役目が多くて御苦労なことだ」
軽く笑いを含んだような声で、柳は手にしていたノートを閉じた。
「俺も山≠セ」
柳の出した結論もほぼ100%通ることになっている。それに真田としては、柳は自分の右腕のようなものだから無論反対する必要などなかった。うむ、と頷いて柳生に目を移す。柳生は海≠ノ行かせるべきだろう。真田はそう考えた。心ならずも幸村とは離れてしまうとは言え、これでちょうど半分に分かれることになるわけだし、何しろ幸村に不便がないように気を配れる人材としては柳生はうってつけだ。俺や蓮二の代わりとまではいかんだろうが、と思ったときに仁王が尋ねた。
「柳生はどうするつもりなんじゃ?」
「そうですねぇ」
柳生はほんの僅か考え込んだ。その後、何故か柳の方を向いた。
「私も山≠ナ構いませんか?」
「な!?」
思いもかけなかったその言葉に驚いた真田をよそに、柳はすぐに答えを出した。まるでその質問が出されることを予測していたかのように。いや、明らかに予測していたのだろう。そしてその答えは真田の計画とは180度違っていた。
「あぁ、問題ない」
「決まりじゃの。俺、メンバー分けの結果、報告してくるけぇ」
仁王が珍しく自分から働き出した。柳生の決断が嬉しかったと見える。或いは真田に反対される前に、という心積もりだったかもしれない。真田は忌々しげにその背中を睨み付けた。仁王には効かないと知ってはいたが。
「まぁ精市なら大丈夫だろう」
そんな真田に、柳がそう請合った。
「心配なら時間を作って様子を見に行けばいい。便宜上2班に分かれるだけで、何のことはない同じ島にいるわけだしな」
「む…」
それもそうだ、と真田は納得し、そこで肝心の幸村の姿が消えていることに初めて気が付いた。
「精市!どこだ!?」
まさか体調を崩してどこかで倒れたか、と一人合点して焦った真田は物凄い勢いで皆を残してその場から走り去った。
「…何スか、アレ?」
「群れをまとめようとする牧羊犬の習性のようなものだな」
「素晴らしいですね。幸村君の匂いが解るんですか」
「それ、あんまりシャレになんねーだろ…」
「で、幸村君はどこに行ったワケ?」
柳以外の一同は、顔を見合わせて首を傾げた。答えを求める全員の視線はすぐに柳に突き刺さった。柳は当然答えを持ち合わせている。
「俺、焼魚が好物なんだ〜≠ニ六角辺りにプレッシャーを掛けに行っている確率95%」
「………」
一同は沈黙した。それぞれの脳裏に幸村の花のような笑顔が浮かぶ。その笑顔こそが平時の幸村の最大の武器だ。油断した相手を追い詰め、有無を言わせず欲しいものをすべて勝ち取ってくる手腕はまさに鬼だということを知らない者など居なかった。
「さすが幸村君。戦いは既に始まっている、というわけですね」
柳生のフォローも少々苦しい。まぁな、と相槌を打った桑原にも元気がなかった。
「そりゃそーと、何つーかさ…真田は時々、その…」
丸井が気の抜けたような小さな声で言った。
「ちょっと間違ってるよな」
それに異を唱える者も、勿論居るはずがなかった。早く救助が来ないと大変なことになるかもしれない♀せずして各々の胸にそんな不安が去来した。


07291430

すぐ前を歩いていた桃城が突然立ち止まったせいで、越前はしたたかにその背中に顔をぶつけた。先輩を先輩とも思わない、と専らの評判の彼のこと、すぐさま抗議の声を上げたのは当然の成り行きだった。
「ちょっと、桃先輩!何やってるんすか!?」
「おい、見ろよ、越前」
しかし桃城の方も慣れたものだった。非難の声になどまったく取り合わず、木立の向こうを指差してみせる。その先は明るく開けていて、ちょうど「海」側の合宿所に設けられた広場に当たるようだ。
「へぇ。やっぱ、海で遊ぶならこっちの合宿所の方がいいっすね。近くて」
折角島に来たんだから海で遊ばないと、という解ったような解らないような桃城の言い分で海に付き合わされていた越前は、まだ自分たちの合宿所が先なのを思ってうんざりした。森の中を突っ切って近道してはいるが、行きはよいよい帰りは怖い…遊んでいる間は自分も楽しんでいたことは、すっかり忘れている。
「バーカ。よく見てみろよ―立海大の幸村部長だ」
「え?」
越前は桃城の指の先を辿った。確かに広場の外れ、つまり二人が今居る小道沿いの一番大きな木に背中を凭せ掛けて座る立海のジャージ姿がある。意外と近くだ。木の枝の影が映ってもなお白い横顔は俯き加減で、落とした視線の先にはいかにも分厚いハードカバーの本。時折海から吹いてくる風に、遠目に見てもきれいにウェーブのかかった髪を自由に遊ばせながら、落ち着いた仕草でゆったりとページを捲っている。物憂い午後の静かな風景だった。まるで無声映画か夢の中に出て来るような。
あれが立海の部長かと思ったものの、越前は大して興味も覚えなかった。立海大附属とは関東大会で対戦したから面識はあるが、幸村はその間病気で入院していたのでこの合宿が初対面だ。それに、来る途中の船の中でもこの島に漂着してからも、幸村とは話をする機会もなかった。ま、そもそも話題がそんなにあるとも思えないけど、と結論付けて、越前は桃城を促した。
「早く帰りましょうよ」
だが桃城は頷かなかった。きょろきょろと辺りを見回しながら呟く。
「一人だなんて、珍しいな。…そういや真田さんは山(こっち)に居るんだっけ」
「え?あぁ、そうっすね」
「おかしくねぇか?こりゃ絶対おかしいだろ」
「…何が?」
「けど逆にチャンスかもな、越前!」
「だから何が!」
桃城は振り返った。その顔には、悪戯を思いついた時の笑みが一杯に広がっている。
「練習試合してもらう…ってのは無理かもしんねーけど、なんか教えてもらえるかも、だろ。何つったって」
そこで桃城は声を潜め、身をかがめて越前の耳に囁いた。
「うちの手塚部長と同等…もしかしたら、それ以上かも?ってほどの人だからな。こんなチャンスを逃すわけにはいかねーな、いかねーよ」
「へぇ?そんなに強いんだ?あの人」
「強いなんてもんじゃねーよ。立海大のバケモノの一番上だぜ?それにお前も知ってるだろ?切原の野郎。あいつだって、幸村部長は本物のバケモンだって言ってる…ま、ウチの部長も似たよーなもんだけどな」
ふぅんと先輩の言葉に耳を傾けながら、越前は改めて幸村を見た。相変わらず澄んだ湖のように端麗なその姿からは、桃城や切原の言うバケモノ≠ニいう言葉はまるで浮かんでこない。そんな表現はむしろ凶暴な切原とか…そう、副部長のくせに妙に偉そうな真田にこそ似合いそうなのに。それに。
「似てるっすか?」
「へ?」
「今、桃先輩、手塚部長とあの人が似てるって言ったでしょ?」
あぁ、それがどうかしたか?桃城は少し首を傾げ、すぐに「見た目がってことじゃねーぞ?あ、見た目ってことなら真田さんの方が似てるかもな」と言いながら人の悪い笑いを浮かべた。
「何しろ年齢不詳っつーか、詐称だし?どう見たって二人とも中学生じゃねーよな」
「それ、シャレになんないっす」
越前が思わず噴き出すと、桃城の笑顔はますますにんまり深くなった。
「けど、誰かさんは部長のそういうところも好きなんだよなー?」
「!!ちょっ…誰のこと言ってるんすか!?」
まさに図星。焦りのあまり、らしくもなく過剰に反応してしまった。これでは「はい、そうです」と言っているのと同じだ。それに気付いた越前はすっかりへそを曲げて帽子を深くかぶり直した。
「俺、興味ないっすから。先、戻ります」
待て待て待て。追い抜こうとした右腕を力任せに掴まれて、足がたたらを踏んだ。力ではとても叶わない。
「もう!何するんすか!」
えちぜーん、と桃城は猫撫で声を出した。不気味以外の何ものでもない。
「先輩を一人で行かせるつもりか?俺が取って喰われたらどうするんだよ」
「別に!食料の減りが少なくなって、却ってみんな助かるかもね。それにあの人、言われるほど怖くなさそうじゃん。案外にこにこして教えてくれるんじゃないすか?」
「そうかぁ?」
二人はそこで、もう一度幸村を見た。
突然強い風が吹いた。



緑の葉が何枚か、枝から離れて宙に舞った。いずれは地に堕ちるということだけを共通にして、それぞれが不安定に不規則に、何の脈絡もなく空間を漂っている。刹那の情景。
今、幸村は本から目を離して、上空のその光景を見つめていた。さっきまでは伏せられていた大きな目ときれいに通った鼻筋が露わになっている。なぜか唇がゆっくりと微笑を形作り、右手はすうっと垂直に伸びた。滑るように。或いは何かの祈りを捧げるように。
ぱっと手が開いた。そこから先は、あっという間すらなかった。
白い何かが稲妻のように虚空を切り裂き、すぐに止まった。幸村は右手だけをまっすぐ空に突き出していた。かためられたその白い拳から何かが見えている。
「げっ…まさかあの体勢で、落ちて来るのを全部取ったのかよ」
「………」
固唾を呑んで様子を見守る二人をよそに、幸村はやはり流れるようにやわらかく腕を下ろした。開いた掌には案の定、何枚もの葉が在る。幸村はそれを見て、また微笑んだようだった。
「あの人、なんか怖いっす」
「そーだな…ありゃ人間業じゃねーかもな」
思わずぼそりとそう洩らした越前に、桃城も力なく同意した。
「けどよぉ、チャンスだしなぁ」
二人が複雑な気持ちで見つめるその先で、幸村は取った木の葉を読んでいた本に挟んだ。と言うよりも、全部の葉っぱをまとめて同じページにつっこんでぱたりと本を閉じたと言う方が近い。意外に大雑把なところもあるらしい。そして、次の瞬間、越前たちは自分の目を疑った。本を傍らに置いた幸村は、そのまま日陰にごろりと横たわったのだ。あまりにも無造作に、かつ無防備に。まさかそんなことになるとは思わなかった二人の驚きは並大抵ではなかった。
「ちょ…桃先輩、あれ、大丈夫なんすか!?」
「まさか倒れたんじゃねーよな?行くぞ、越前!」
「うぃっす!」
ついに越前たちは茂みから飛び出した。

「あの、えっと…幸村さん?おーい」
「………この人、マジで寝てるんじゃないすか?」
至近距離で話しかける二人をものともせず、幸村はくぅくぅと明らかに寝息を立てている。どうしてこの状況で眠っていられるのかさっぱり解らない。そこへ足音が近づいてきた。
「おっと、遅かったか」
「あれ、桑原さん」
ちわっす、と軽く頭を下げた桃城に、桑原はおうと気さくに手を挙げて答えた。
「…お前たち、無事か?」
「へ?」
「何のことっすか?」
桃城と越前は顔を見合わせた。
「あぁ、いや、何もないならいいんだ。それより、こいつを起こさないと…」
やれやれと肩をすくめて、桑原は屈み込んだ。
「入院生活が長かったろ?どうも変な昼寝癖がついたみたいでな。眠くなったらいつでもどこでも寝る。で、その分夜は眠れないってことになるらしい。だから真田が」
そこで桑原は痛々しいほど大きな溜息をついた。
「見張っとけ、何が何でも昼の間は寝かすなってな」
どうやら相当苦労しているようだ。
「………あぁ」
「そりゃ大変っすね」
ハハ、と桑原は力なく笑った。
「もう慣れたさ。で、お前らは心配してくれてたのか?ありがとうよ」
いえいえ、通りすがっただけなんすけど。桃城は頭をかきながら答えた。
「できれば、その…幸村さんに一度練習見てもらえねーかなー、なんて…」
それを聞いた桑原の表情が俄かに曇る。
「あ、いや、無理ならいいんすよ!勿論!」
「無理ってよりは、その…真田が何て言うかな…」
「何でそこに真田さんが出てくるんすか?桃先輩はその部長にって言ってるんすよ?」
「………」
桑原は無言でまっすぐ越前を見上げた。そしてふっと皮肉気に口元を歪めた。
「色々あるんだよ。ま、伝えとくだけは伝えとくぜ。結果は期待しないでくれるとありがたいがな」
「充分っす!ありがとうございまっす!」
勢い込んで頭を下げた桃城に、桑原はいいからいいからと言わんばかりに手を振った。
「あ、そうだ、向こうに帰るんなら、柳生に一度こっちに来るように伝えてくれると助かる。頼めるか?」
「お安い御用っすよ!」
「うぃーっす」
桃城と越前はそれぞれに頷くと、ごそごそと林道に戻った。背後から桑原が幸村に掛ける必死な声が聞こえてくる。本当に大変のようだ。唐突に悲鳴が響いた。二人はびくっとして顔を見合わせ、同時に恐る恐る来た道を振り返った。だがもう広場の様子は見えない。それきり辺りには沈黙がおりた。
「桃先輩…今の、桑原さん…」
「何も言うな…帰るぞ」
「…俺、立海(あそこ)に入らなくってよかったっす」
「そーだな。俺もそう思う」
この暑い中、二人は背筋を冷やしながら帰り道を急いだ。



07300700

ロッジから出てきた幸村が、扉の前ですぐ足を止めて大きく伸びをするのが見えた。葵はなんだか嬉しくなった。幸村が―あの@ァ海の部長が、こんなにリラックスしている姿を見られるなんて珍しい。ツイてるかも!?そんな風に思ったのだ。
一年生の葵は、今まで幸村と面識がなく、この合宿に参加して初めて顔を合わせたのだが、とても気楽に話しかけられる感じはしなかった。他校の部長、たとえば同じ「海」チームで言うなら南は断然話し掛けやすかったし、趣味がスキューバダイビングだという赤澤とも海が好きな同士ですぐに打ち解けた。でもそのほかの部長たち、つまり沖縄の木手―見るからに怖い感じがするだけじゃなく、自分たちを馬鹿にするような言動しかしない―や、「海」のリーダーに収まった氷帝の跡部―個性が強烈すぎてちょっと疲れる感じ―なんかに比べると、幸村の方がずっといいと思う。


とは言え、今、こうして少し離れたところから見ても、どことなくただ者じゃない♀エというか、近付きにくいオーラがびしばし出ている。やっぱりあの@ァ海の部長は違うなぁ、と思わずにはいられなかった。自分も(なぜか)部長をしているが、当然のことながら上級生の部員たちとの関わりは、他校の部長と部員たちの関係とは全然違っている。仲のいいチームメイト…を通り越して兄弟みたいだ。葵は自分たちのチームが大好きだから、別に現状に不満があるわけでもないが、幸村の持つ静かな威圧感で狂暴な(?)部員たちを統率する<Cメージはとてもカッコイイものに映った。それに。
葵はもう一度しげしげと幸村の姿を見つめた。
綺麗だ。とっても。…もし妹さんなんかいるんだったら、紹介してもらえたりしないかな?
そんな下心めいたものを抱えながら、葵は大きな声で元気よく「おはようございます!」と幸村に声を掛けた。六角というチームで大勢の兄たち≠ノ可愛がられて育った末っ子だ。つまりは基本的にどうしようもないほど怖いもの知らずなのだった。


やぁ、おはようと挨拶を返してくれた幸村の笑顔が、また、とてもよかった。見る人を幸せな気分にさせる。近付きにくいと感じていたのは勝手な思い込みだったのかもしれない。葵はますます勢いづいた。
「今日もいい天気ですね!海遊びにはちょうどいいですよ!幸村さんもボクたちと一緒に海に行きませんか?」
「海遊びって?」
幸村は睫毛の長い目で二、三度瞬きをしながら小首をかしげた。
「あっ、ボクたち、部活前なんかによく海で色々なことして遊ぶんですよ!」
葵は一生懸命説明した。みんなと一緒にする潮干狩りや海草拾いの楽しさ、たまには海岸の掃除なんかもすること。幸村はずっとにこにこしながら聞いてくれた。時々「へぇ、そうなんだ」とか「それはいいね」なんて優しく相づちを打ちながら。だから葵は調子に乗った。思いつく限りのこと、たとえば全国大会に向けてこっそり頑張っている砂浜での脚力トレーニングのことだとか、ペリーが黒船で来港した時から既にオジイはオジイだった、なんていう六角中の機密事項までをべらべらと喋り、幸村に「君たちっていいチームだね」と褒められてすっかりいい気分になった。挙げ句の果てにこう思った。なんか、ボク、幸村さんのこと、好きかも―と。


「ねぇ、さっきの素潜り漁のことなんだけど」
二人並んで炊事場へと歩き出しながら幸村がそう切り出した。葵は穏やかな幸村の声を一言も聞き逃すまいと幸村を見上げ、必死で耳を傾けた。
「初心者…たとえば、俺なんかでもできるものなのかい?食料確保は最重要課題だから、挑戦するのも一興だけどね。リターンがリスクに見合うかどうかが心配だな」
「任せて下さいよ!」
葵はここぞとばかりに胸を張った。
「ボクがいっぱい魚獲りますから!幸村さんは待ってて下さい!」
幸村は大きな目を更に大きく見開いて葵を見た。そして次の瞬間、ふふふと笑った。
「すごいな、葵。カッコいいぞ。やっぱり男はそれくらい自信、持ってないとな」
「えっ、そうですか!?カッコイイですか!?」
「うん、カッコいい」
冗談だよとも言わず、幸村が真面目に頷いたので、葵の喜びはそこで最高潮に達した。
そして、思った。
ボク、幸村さんのこと、大好きだ―と。


廃墟庭園


1章(全)

 な〜んか話が違う気がするんだよな。
 切原赤也は重い足を引き摺るように学校へと向かっていた。
 学兵に志願すれば、勉強のことはそんなにうるさく言われることもないだろう。正規の軍人ではないものの、学生というわけでもない。単純にそう思っていたからだ。
 それに何といってもカッコいい$車を自在に操って幻獣どもをガンガンやっつける自分の雄姿を想像するだけで血が熱くなるではないか。昔から大好きだった特撮ヒーロー番組の主人公の姿が脳裏をよぎる。巧くいけば、自分が主人公の番組だって放映されることになるかもしれない。戦功を挙げた学兵の活躍は大きくマスコミに取り上げられ、称賛されるのが常だ。まるでアイドルのように。
 いつかは、いや近い将来自分もきっとそうなる、とずっと前から考えていた切原は、この自然休戦中に新学期と徴兵を待たずさっさと家を飛び出して学徒兵に志願した。戦車学校と呼ばれる半軍半学の施設は寮生活が基本だし、入隊/入学したてでも一応は給料が支給されるというのがありがたい。とりあえずの暮らしは何とかなる。同じ小隊に配属された同期の新入生≠燗人居て心強い。悪くないスタートだと思われた。

 しかし、だ。
 新しい学期が始まるのは九月一日、つまり明日から。本来今日までは楽しい楽しい夏休みのはずだ。尤も既に兵科訓練は始まっていて、来る日も来る日も学校で体力向上プログラムだの戦闘シミュレーションだのに取り組む毎日だった。そこまではまだいい。体を動かすのは大好きだ。戦車の操縦シミュレーションのほうは、さすがに覚えることが多すぎてなかなか成果が上がらないことに苛立ちはしていたものの、覚えないことには正式な戦車兵にはなれないという切実な事情も相まって、おとなしく日々の基礎トレーニングを続けている。その辺りは、切原だけではなく同じ寮に暮らす他の隊の新入生たちも似たり寄ったりだと言えた。
 問題はこの小隊の監督役だ。どうも平均よりも厳しすぎるのではないかという疑惑がある。
「学兵の本分は学生です。すなわち勉強です」
 関東から先遣隊として派遣されてきた柳生千翼長は、初対面の日からそうきっぱり言い切った。毎日毎日イライラするほど暑い日が続くにもかかわらず、柳生だけはいつも完璧に制服を着ていて襟元を緩めた姿さえ見たことがない。見ている切原の方が却って暑苦しく感じるくらいだ。いかにも優等生然としている彼の背筋は常にしゃんと伸び、手入れの行き届いているらしい栗色の頭のてっぺんからぴかぴかに磨かれた革靴のつま先まで、まったくどこを見ても隙がなかった。掛けている眼鏡の位置を時折直す仕草は神経質そうで、切原にとってはどちらかというと親しみの持ちにくいタイプだ。
 しかし苦手だからと言って敬遠しているだけでは済まされない。まだあまり実感は湧かなかったが、寮で他の部隊の先輩学兵に聞いたところによると軍隊では階級が総てにおいて優先されるそうだ。もし三階級上の柳生が白だと言えば切原の目にはどんなに赤に見えたところで白だということになるらしい。勉強しろと言われれば、しなければならない。いくらイヤでも、基本的には。
 それに柳生の職務はオペレーター。戦場では戦車兵の誘導や指揮の伝達などを行う。戦車兵志願の切原としては、避けてばかりではマズいだろうということくらいは解る。
 だから、「補習をしますから出てきたまえ」というありがたい$\し出には逆らえず、折角の夏休みの最終日をこうして自習をするために学校まで出かけてくる羽目になったというわけだ。―尤も切原の学業成績は、確かに柳生の眉を顰めさせるだけの破壊力を持っていたわけだし、柳生も休日を潰すことになるのだから、客観的に見れば柳生の方こそ被害者と言えよう。
 とは言え、同じ扱いを受けてもいいはずの他の二人、丸井と桑原は補習を免れてプールに遊びに行くというのは許せない。絶対、なんか間違ってる!

 腹立たしい気持ちをくすぶらせたまま校門をくぐった切原の視界の端を、何かの影が過ぎった。首を曲げて確かめる。車椅子に乗った誰かが、ゆっくりと校舎の裏手の方へ向かって進んで行くところだった。
 危ないなぁ、と無意識のうちに思ったのは他でもない、自分も何度か躓きかけたことがあるからだ。今、校舎裏には本隊の到着を間近に控えて戦車の為の巨大な車庫―ハンガーを設営している真っ最中で、地面にはさまざまなケーブル類がうねうねと這い回っている。人の足でも通りにくいのに、車椅子ならもっと大変だろう。何をしに校舎裏へ行こうとしているのかは解らないが、一言、声を掛けた方がいいだろうか。
 ほんの一瞬迷って、切原は足の向く先と速さを変えた。校舎には入らず、人影を追ってそのまま建物の外側をぐるりと迂回する。
 と、車椅子は思ってもみなかった方へと向かっていた。目指す先は裏庭ではなく、学校の脇の塀―いや、それに沿って何本か並んでいる樹のうちの一本のようだ。切原はますます首を傾げた。何の用事なのかがさっぱり解らない。放っておいたほうがよかったかな、と思ったちょうどその時、ぐらり、と車椅子が大きく横に傾ぐのが目に入った。切原は反射的に駆け寄った。



 慌てて伸ばした切原の手は間一髪のところで車椅子の手摺を掴み、何とか横転は免れた。ほっとしながら足元を見ると、木の根が何本も地面に露出している。ここ数日柳生が躍起になって進めていた校舎のバリアフリー化工事も、流石にここまでは及ばなかったらしい。
 これのせいでバランスが崩れたんだな、と思いながら「危ないっスよ〜」などと軽く声を掛けて車椅子の主に目をやった、その次の瞬間思わず怯んだ。
 突き刺さる、先端が鋭く研ぎ澄まされた針。
 そんなイメージに襲われたせいだ。本能的に身を硬くした切原だったが、すぐにのんびりとしたやわらかな声が響いて空気を和ませた。
「ありがとう、助かったよ」
 転んだら厄介なんだ。俺一人じゃ、起き上がるのも結構難しくてさ。
 にっこりと微笑んで切原を見上げたその姿には、さっき確かに感じたはずの恐ろしいほど剣呑なオーラなどどこにもない。むしろそれとは正反対の、可憐と言ってもいいほど整った容姿の持ち主だった。この辺りでは見掛けたことのない制服を着ている。学兵なのか一般生徒なのかは区別が付かない。やわらかくはあるもののやや低めの声、それに自分を「俺」と称したところから考えると男なのだろうが、切原はぼぅっとその人に見蕩れた。一度だけドラマの収録中の女性アイドルを間近で見たことがあったが、白い肌といい華奢な上半身といい、もしかすると彼女よりも美人≠ゥもしれないとすら思ったほどだ。
 そんな反応はおそらくよくあること、なのだろう。何を答えるわけでもない切原に、気を悪くした様子もなく彼はふふふ、と笑いをもらした。
「ねぇ、君、この学校の人?」
 小首を傾げながらそう聞かれた切原は我に返った。ここぞとばかりに胸を張って名乗りを上げる。
「そうっス!エースの切原赤也っス!!」
「エース?」
 彼はきょとんとした表情でそう繰り返し、すぐにまたにっこりと笑みを浮かべた。
「そうか。凄いな」
「いやぁ、それほどでも」
 切原は軽く頭をかいた。実際にはまだまだ正式な戦車兵ですらない身だったが、そんなことは些細なことだ。有言実行が切原のモットーだったし、カッコつけるのも大切だ。

 だが、絶妙のタイミングで聞こえよがしの溜息が聞こえた。
「な〜にがエースじゃ。まだ車両資格も取っとらんヒヨッコがエラそげに」
 いかにもかったるそうなアクビ混じりの声が続く。思い当たる人物といったら一人しかいない。物凄い勢いで振り返った切原の目の前にいつの間にか立っていたのは仁王だった。案の定だ。
 それにしてもその格好はどうだろう。一応は制服を着ているのはいいが、今日も朝から暑いから、或いは休日だからとでもいう理由なのか、普段よりも更に二割り増しのゆるゆる具合に着崩していて既に制服の原形を留めていない。要は肌の露出具合が甚だしいのだ。切原は前から柳生と仁王の外見は足して二で割るとちょうどいいんじゃないかと思っていたが、どうも今日の仁王を見る限りではその計算でも少しマイナスに傾きそうな気がする。
「って言うか、何で仁王先輩が居るんスか?」
「そうだよな。休日出勤なんてする柄じゃないだろ」
 あれ?知り合い?と思った切原が二人を交互に眺めるのは気にも止めず、僅かに鼻に皺を寄せた仁王は肩をすくめ、
「寮がうるそぅておちおち朝寝もできんかったわ。掃除せぇとか規律を守れじゃとかぶいぶい文句言うてから、敵わんぜよ」
 そうぼやいて大きなアクビをした。実際、一昨日あたりから急に厳しく言われるようになったのは切原にも覚えがある。新学期が近いせいかななどと、さして気にもしていなかったが。
「へぇ?ここの寮長ってそんなに真面目なんだ?」
「真面目っちゅぅか、単に上にペコペコしよるタイプよ〜。ほれ、ウチの参謀は千翼長じゃろ?上官に何ぞ失礼があったらいかんゆぅて、張り切りすぎなんじゃ。ったく小物が鬱陶しいわ」
 そう吐き捨てた仁王の言葉に切原は息を呑んだ。仁王は軍歴が長いとは聞いているが、それでも寮では寮長の方が立場が上のはず。今の言いようは明らかにアレだ、噂に聞く上官侮辱罪≠ニいうヤツだ。一体どうなるものか、事の成り行きを半ばわくわくしながら見守ったものの、相手の反応はまるで薄かった。そうか、と軽く頷いただけだ。流石に仁王の知り合いだけあって、反抗的というかマイペースというか、見かけよりは骨がある人らしい。これが柳生だったら、それこそ目を吊り上げて注意するに違いないのに。
 それにしても、優等生タイプとは基本的に反りが合わないから、元々柳生よりは彼と一緒に赴任してきた仁王の方が打ち解けやすいと思っていたが、その気持ちはこれでますます強くなった。自分の考えだとかスタイルだとかをしっかり持っているのは凄い、と単純にそう思ったわけだ。まぁそのファッションセンスはどうかという疑問は残るが。そうだ、ついでに、この仁王の知り合いも気に入った。
「そう言えば蓮二は寮に入るって言ってたな」
「…どうせなら柳生も来りゃよかったのに」
「まぁまぁ。代わりに俺が行ってやってもいいぞ」
 ぼそりと呟いて視線を落とした仁王の腕を親しげに叩くと、車椅子の人は話に入る隙をうかがっていた切原に向き直った。
「ところでさ、君、何か他の用事があったんじゃないの?すっかり脱線しちゃったけど」
「!!そうだった!」
「あほぅ。柳生を待たせんなや」
 仁王は犬を追い払うときのような仕草をしてみせた。ムッとしながらも一応は軽く頭を下げた切原に、その人はますます綺麗に微笑んだ。
「じゃあね、ヒヨッコエースくん」
 ヒヨッコは余計だと反論するだけの根拠も時間もありそうになかった。畜生、と内心で毒突きながら、切原は急いで教室を目指した。



 夏の終わりの日射しはまだ強く、開け放した窓から時折入って来る風にひらめくアイボリーのカーテンが床の板目に落とす影は濃い。学校は基本的に冷房設備よりも暖房の方を重視する方針だから、今が一番過ごしにくい季節でもあろうか。既に教室で待っていた柳生が、切原が入っていくと、読んでいた文庫本から目を上げて左腕の時計を確認するや軽く溜息をついたのにも、その辺りが関係していないとは言えないだろう。暑さは人の苛立ちに拍車を掛ける。
 しかし今日の柳生はいつもとはやや姿が違っていた。真っ白な皺ひとつないオープンシャツでノータイ、ということは一応は休日仕様≠ニ見える。とは言え、切原の目にはその姿が文句の付けようのない模範生ぶりに映った。とりわけルーズな仁王の姿を目にした後だけに、尚更だ。両袖にはきちんと校章と部隊章が付いているが、支給されているいつもの制服とは明らかにタイプが違う。その珍しい姿をじろじろと眺めていた切原に、柳生は勿体をつけてお説教の口火を切った。
「四分と二十秒の遅刻ですよ」
 二十秒くらいいいじゃん。
 切原がそう思った途端に「三秒はおまけしておきましたからね」で始まる追い打ちがかかる。
 朝は余裕を持って登校なさいだの、その為に夜はなるべく早く休みなさいだのとまるで小学生(しかも低学年)に言い聞かせるような内容と口調なのがまた余計に癇に障った。
 スミマセン、と一応は頭を下げたが気は収まらない。くどくど続くお説教の合間を何とか捕らえて、切原は口を挟んだ。
「仁王先輩も来てたっス」
 柳生はその悪い知らせ≠ノやれやれと言いたげに頭を振った。どうやら仁王の名を聞いて気が逸れたらしい。そもそもこの二人は見た目からして水と油だ。柳生が一方的に仁王の素行不良に手を焼いているだけで、仁王の方はまったく気にしていないようにも見えるが、何にせよ仁王先輩の方をもっと重点的に注意してくれりゃこっちの小言が減ってありがたいのに、とずっと切原は思っていたから願ったり叶ったりだ。
「話をしましたか?何をしに来たんですかね?」
「知らないっス」
「…ちゃんとした服装をしてましたか?」
「制服は着てたっス。でも」
 思いっきりヘソ出してました!
 ここぞとばかりに元気よく答えると、柳生は右手で額を押さえた。
「…真似はしないで下さいよ」
「や、ちょっとできないっス」
「そうでしょうねぇ」
 うんうん、と頷いた柳生だったが、次にその口から出てきたのは意外な言葉だった。
「ですが彼を見かけだけで判断すると、痛い目に遭いますよ」
「へ?」
「本当の意味で、頭のいい人ですから。仕事もできますしね。………君も、差し当たっては仕事さえしっかりしていれば何とかなるでしょう」
 但し手抜きはいけませんよ。
 柳生は随分と静かに言った。丁寧なその物言いはいつもと少しも変わらないが、今の話にはどこか途中で話がすり替わったような違和感がある。だが何かを言いかけて止めたものなのか、それとも単に言葉を探す為の沈黙を挟んだせいなのかは判断が付かなかった。
 切原は一応頷いてみせ、そう言えば、とふと思い出したことを口に出した。
「仁王先輩、知り合いの人が来てたみたいっスよ。えっと、車椅子の」
「えっ!?まさか!」
 柳生のその反応は予想外だった。普段は冷静そのものの姿しか見せたことのない彼が、今は明らかに動揺している。突然立ち上がり、その手から本まで取り落として。
「どんな人でした?いえその、何と言うか…」
 ほんの一瞬躊躇した気配の後、柳生は続けた。
「美人でしたか?」
「…はぁ、キレイっつーか優しそうっつーか」
「幸村君、いえ、上級万翼長です!!」
 そう叫ぶのとほぼ同時に、柳生は教室を飛び出していた。
「は?」
 首を捻る切原の耳に、遠くから声が届いた。自習していて下さいよ、と言っている。職業柄なのかどうかは解らないが、随分と良く通る声だ。それにしても、勉強と仕事しかしなさそうな印象の柳生があんなに走るのが速かったのは意外だった。少し見直したかも、と思いながら、切原はひとつあくびをした。椅子に座り、そのまま机に突っ伏す。自習せよ、の指示は聞こえなかったことにしても大丈夫だろう…多分。



「あの新入生、なかなかいい走りっぷりじゃないか。頼もしいな」
 校舎に向かってがむしゃらに走っていく切原の後ろ姿を目で追いながら、車椅子の少年―幸村は楽しそうに笑った。
「そうかのう。ウチの新入りな、赤也だけじゃのぅて、他の二人もやんちゃ過ぎるわ。保父さんが手ぇ焼いとる」
「ふぅん。で、今日は自主練かい?まだ休みのはずだろう。偉いじゃないか」
「補習じゃ。真っ赤っかな成績表見て、柳生が責任感じよった」
 ほっときゃえぇのに、と下唇をぶぅっと突き出して答えた仁王に、幸村は更に楽しそうな笑い声を上げた。
「なんだ、つまり柳生に構ってもらえなくて拗ねてるんだ?」
「誰がそんなこと言うたんじゃ。しばらく会わんうちに耳も悪くなったか、幸村。悪いのは性格だけにしときんさいや」
「え〜、俺、性格悪いかなぁ。脚は悪いけどさぁ」
 親友である仁王の容赦ない一言にもにこにことそう言い返す。
「う…」
 仁王は返事に詰まった。そうだった。だが幸村が戦傷で下半身不随になったのはまだほんの二ヶ月前のことだし、夏休みや転属の手続きなどに始まる諸々の自分の忙しさにかまけていて、その重い事実に真正面から向き合う暇はなかった。それに、目の前で笑っている幸村は以前とちっとも変わらない。次の瞬間には自然に車椅子から立ち上がって、たとえば、そう、この高い木の枝に登っていこうとするんじゃないかという気すらする。昔、よくしていたように。
 そこで仁王はあることを思いついて頭を抱えた。直感だが、自分の予想は決して的外れではないだろう。
「って言うか、な、お前、木登りするつもりじゃったろぅ?」
 その疑問に、幸村は真顔で答えた。
「うん。よく解ったな。俺、まだ時々忘れるんだ。自分の脚が使えないこと」
 でもそのうち、なんとかしてみせる。大丈夫だ。もう少し上腕を鍛えれば何とか登れるようにはなると思うんだ。
 そう胸を張る幸村に、「もっと別のことを頑張った方がえぇんじゃないか?」とアドバイスすべきか否か、仁王は激しく迷った。しかしその間に幸村はさっさと話を続けていく。
「それにさ、朝、目が覚めたら怪我する前に戻ってるかもしれないだろう?」
「治るのか!?」
 柳生は脊髄を損傷したら再生は不可能だと言っていた。もう二度と、幸村が自分の脚で立ち上がることはないと。友人としていたみ悲しむ気持ちは無論、その力を失ったことは全ての人類にとっての損失だとすら。滅多に他人に本音を洩らさない柳生が嘆く姿は今でも忘れられない。
 「そうじゃないよ」
 幸村はあっさり軽く手を振って否定した。
「時間が戻るかもしれないじゃないか。偶にはさ」
 何が楽しいのか、相変わらずにこにこと笑いながらそんな突飛なことを言う。
 だが幸村が不可解な言動をするのには慣れている。つられてはは、と乾いた笑いを洩らしながら、そう信じたいなら好きなだけ信じるといい。何なら俺も信じてやってもいい。仁王はそう思った。幸村の目がどうにも笑っていないのが気がかりだが。

「あぁ、でも仁王は時間が戻ったら困るんだっけ?告白、巧く行ったんだろう?」
 突然話が切り替わった。
「巧くっちゅーか…まぁ、一応。お蔭さんで」
 仁王は指でVサインを作った。一瞬躊躇いがあったのは仕方がない。確かに意を決して柳生に告白はした。だが巧くいった≠烽フなのかどうかについては、これまでの経験を総動員しても判断が付かないからだ。一番しっくり来るのははっきりと断られはしなかった≠セ。正直言って、対処に困る。
「良かったじゃない。気にしてたんだ…このくらい」
 ぎこちない様子の親友を慰めるつもりなのか、幸村は親指と人差し指でほんの僅かな隙間を作って見せてまた笑った。
「ツバ付けといてよかったと思うよ。先手必勝って言うしな」
「あ?」
「整備班がどういうわけか女の子主体になっちゃってさ。到着したら、ちょっとややこしいことになるかも」
「マジか…」
 そうだった。まだこれから新しいメンバーが増える。即ち新しい問題が出てくることを悟って、仁王は思わず溜息を吐いた。
「柳生は当然じゃけど、俺もモテるしのぅ」
「抜け抜けと自分で言うところが凄いよな。別にいいけど」
「何を他人事んように。旦那の目ぇ盗んで早速新入生を誘惑しとったんは何処のどいつじゃ…お?」
 仁王は途中で言葉を切ると、人聞きの悪いことを言うなぁなどとのんびりした抗議の声を上げる幸村には構わずに、きょろきょろと辺りを見回した。目の届く範囲には誰も居ない。無論、こんな夏休みの学校には、生徒は居ない方が自然だ。しかし、幸村がここに居るなら話は別だった。この場合にはあと一人、居ない方が不自然―

「幸村、お前、独りか?」
 うん、と幸村は頷いた。ふふふと笑っている。完全に作られた微笑だ。
「旦那…やのぅて、真田は!?」
「鬼ごっこしてるんだ」
「…当然向こうが鬼じゃわな。ま、アイツにぴったりやのぅ…」
「だろう」
「おぉ、今頃ツノ生やしてそこらじゅう駆けずりまわっとるじゃろ」
 目に浮かぶようだなと幸村はまた笑顔で頷いた。仁王は恐る恐る訊ねてみた。
「真田にはちゃんと鬼ごっこ≠オよ、ゆぅて出て来たんか?」
 その答えである幸村の無言の微笑は、まさに天使のようだった。
「ゆぅとらんのな…」
「ハンデくらいくれたっていいだろう」
「そういうのはくれるとは言わん。勝手にもぎとった≠チちゅうんじゃ」
 幸村は楽しい鬼ごっこのつもりかもしれないが、真田の立場になってみれば、右も左もわからないこの土地で、突然幸村が失踪した以外の何ものでもない。所詮は恋人同士の戯れ事と片付けるのは容易いことだが、相変わらずの幸村のマイペースぶりに思わず仁王は天を仰いだ。
 青く澄んだ空の高いところに、幾つもの小さな雲の塊りがある。まるで白い鱗が重なり合って空を覆い隠そうとするように。白く燃える太陽の光と熱は未だ地上に対して大きな力を揮ってはいるが、確かにそこには既に秋の気配があった。また闘いの季節が始まろうとしているのだ。
「すべて世はこともなし、かな」
 黙って立つ仁王を目にした幸村もまた空を見上げ、ぽつりとそう呟いた。
「少なくとも、今のところは」



 それは夢のない眠りだったがゆえにどこまでも優しかった。打ち寄せては引きを繰り返し、二度と同じ様相を見せることなく常に形を変えるが、通常それを意識することは極めて稀な波の動きのように、たゆたゆと続くまどろみ。完全に寝入っているでもなく、雲の上を、或いは地上高くに張り巡らされたどこまでも続く細いロープの上を覚束ない足どりで進んでいくような、そんな心地だった。
 だがふわふわとした切原のその幸せは、近付いて来る靴音と話し声とに破られた。
 痛恨の極みだの、非常に遺憾だのと切原なら一生使いそうにない大仰な単語を駆使して何やら低く文句を言っている(のだろう、とまだぼぅっとした頭で切原は考えた)のは勿論柳生で、その合間合間にまぁえぇじゃろ、とかあいつはんなこと気にせんしといった風な慰めだかなんだかよく解らない相槌が入る。こちらの声の主は仁王で間違いないが、その調子がやたらと弾んで聞こえるのは一体どういう理由だろう。
 そう不思議に思いながら、ちょうど教室脇の廊下に差し掛かった二人に視線を向けた切原は、目にした光景にますます首を傾げた。
「大体君がすぐ呼んでくれればこんなことには…」
 と尚もぶつぶつ言い立てている柳生の目線も肩も、力なく落ちていた。いつもとはまるで様子が違う。
「本当に失礼はなかったんでしょうね?」
「なんも。信じてくれてえぇけん、安心しんさい。ほれ、大船に乗った気で」
 対して柳生の問いに答える仁王は、ふふふんとまるではなうた交じりのようにご機嫌な調子だった。落ち込んでしまった柳生を元気づけるつもりなのか、彼の肩に腕を回しぽんぽんと軽く叩いている。随分と親しげだ。
 なんだ、案外仲いいんじゃん。
 てっきりこの二人は仲が悪いと思いこんでいた切原は、それを見て少し考えを改めた。そしてふと、ついこの前仁王が部隊内の人間関係には注意しろ∞なるべく皆と仲良くやれ≠ニ教えてくれたことを思い出した。もしかすると自分でもそれを実践しているつもりなのかもしれない。
 だが「それならいいのですが…」と言葉ではそう言った柳生が、今ひとつ納得しきれずにいるのもありありと解る。仁王に対して絶対の信頼を寄せているというわけではないのが確実だ。
 なかなか難しいもんだなぁ…
 ぼんやりと眺めていた切原の視線に、二人も気付いた。はっとしたように足を止めた柳生は、次いで渋い表情になると自分の肩から容赦なく仁王の手を叩き落し、その瞬間に仁王のご機嫌状態が大暴落を起こした。まるでドミノ倒しのような連鎖反応だ。あまりにも見事だったので切原は思わず拍手しそうになって、すんでのところで自分を抑えた。

「自習は…」
 そう言いかけた柳生は、すぐに切原の机に何も乗っていないのを見て取って眉を顰めた。しかしそれ以上何を追及するでもなく無言で自分も席についた。
「君の会ったのが幸村上級万翼長ですよ。―我々の隊長です」
 唐突にそう切り出されたので、切原は少し戸惑った。
「え…隊長…っスか」
 さっきもそんなことを言われたような気がするなと思いながら、切原は車椅子の少年のことを思い出してみた。学兵とは言えまるで軍人というイメージではなかった。にこにこと優しそうで、そしてキレイで。脚が不自由だということを差し引いて考えたとしても、武器を手にして戦う姿など想像もつかない。
 でも、ま。
 切原はちらりと仁王の方を眺めた。ちゃっかり教室に居座った仁王はちょうど切原がそうしていたように机の上にだらっとつっぷしている。
 何しに来たんだ、この人…
 そう思わずにはいられなかったが、軍属でも皆が皆戦場に出るというわけではないということはやっぱり仁王が教えてくれたことだった。暗いところと狭いところが大嫌いだから戦車には死んでも乗らん、というのがほぼ口癖のようになっている彼も、指揮車の運転手として出撃はするし、いざとなったら指揮車の銃手も務めるという話だが、一応は非戦闘員扱いだ。あの人も、もしかすると戦闘要員ではないのかもしれない。情報士官とか、そうでなければ整備とか。
「あの人の凄さは、君には解らないかもしれませんね。もう戦う姿を目にする機会もないでしょうから」
 重い溜息とともに吐き出された柳生の言葉が、一人で納得しかけていた切原の耳に届いた。
「この戦争を終わらせる…人類の救世主になる人かもしれなかった。少なくとも私はそう信じていましたが」
 もう永遠に失われてしまいました。
 淡々とした口調の中の深過ぎる哀しみは、とても隠し通せるものではなかった。
「えっと…パイロットだったんスか?」
 その問いに柳生は僅かに微笑んだ。
「戦車兵は何百人も居ますが、彼をその同列で語ることはできません。真のエースパイロットでしたよ。共に戦えたことは、私の歓びです…」
 眼鏡の奥の瞳が過ぎた時と所とを探して揺らいでいた。失くしたものの影は、時折もう一度手に触れることのできそうなほど鮮明に意識に浮かび上がる。しかしそれを捉えることは決してできない。柳生はすぐに立ち直りを見せた。
「さぁ、勉強を始めましょうか。少し遅れましたが、予定のところまではやります」
「マジっすか!?」
 うっかり大声を上げた切原は、あ、ヤベ、と肩を竦めた。だが意外にも柳生は再び笑みを浮かべた。今度の微笑はどことなく楽しそうにすら見える。
「君にもいつか上級万翼長のようになって貰いたいですからね。その為ならバックアップは惜しみませんよ。補習も立派な訓練ですから」
「げ〜…」
 救いを求めてきょろきょろと辺りを見回した切原の目に、仁王の姿が映った。さっきから会話に加わるどころか微動だにせず、存在しているという気配自体が希薄だったので半ば忘れかけていた。派手な外見からはまったく考えにくい話だが。とは言え、柳生とみっちりマンツーマンで勉強を教わるよりは仁王が一緒に居てくれたほうがいいような気がする。切原の勘が間違っていなければ、仁王も赤点だとか補習だのとは腐れ縁の―要は切原の同類のはずだ。ついでに柳生のやる気を邪魔してくれれば言うことなしだ。
 切原は期待を込めた視線を仁王の背中に送った。そしてそれは確実に仁王に届いた。仁王は居心地悪そうに身じろぎすると、顔も上げずにぽつりと言った。
「幸村んようなんぞ、ならん方がえぇ」
 柳生がはっとしたように仁王に振り向く。それには構いもせず、仁王は更に続けた。
「あいつは化けモンじゃ…幻獣なんぞよりよっぽど怖いわ」



 弱い風が南の窓から入り込んできたが、教室の凝り固まった空気を一掃するにはとても至らなかった。
 仁王は相変わらずうつ伏せていてどんな思いでそれを言ったのかがまるで解らなかったし、柳生の顔からも一切の表情が消え去っている。無論切原にはこの沈黙を解消する手立てなどありはせず、ただ二人の上級生を代わる代わる見つめた。
 先に沈黙を破ったのは柳生だった。
「訂正する気持ちは?」
 よく通る声が静かに平坦に響く。あくまで感情を抑えた冷静な声だ。
「ない」
 仁王の返事は簡潔だった。間違いようがない。
「困りましたね…上官を侮辱する発言ですよ。…今日は休日ですし、まだ正式に部隊も編成されていませんので私も聞かなかったことにしますが」
 柳生は俄かに顔を曇らせて仁王を見た。
「それ以前に、幸村君はあなたの親友でしょう?」
「だから余計、ゆぅとるんじゃ。あいつはな、戦うことしか考えとらん。それ以外のことは、はっきり言って割とどうでもえぇんよ。…戦うって言やぁまだ聞こえはえぇけど、要は殺すか殺されるかの二つに一つでな。他はなんもない」
 そこで仁王の声のトーンが落ちた。言葉を続けようかどうしようか迷っている風だった。ややあって、「そんな人生、寂しいわ」と投げやりに付け足すと突然上体を起こし、どこか自棄になったように更に続けた。
「大体、あれな、彼氏が真田っちゅうところが既におかしいじゃろ」
 その台詞に、柳生は「それは…」と鼻白んだ。それでも少し時間を置いたとは言え、
「真田君のどこが不足ですか?彼は…その…えぇ…立派な男子でしょう」
 などと言い返したがどうも歯切れが悪い。切原は俄然その真田という人物のことが気になりだした。あのキレイな、でも何だか恐ろしそうな幸村の恋人。同性らしいというのはこのご時世だからまったく気になるものではないが、柳生の妙な反応を見る限りでは、こちらも相当な変人(?)のようだ。
「逆よ、逆。不足やのぅて、何や知らん、あれこれ余計なモンが多すぎるんじゃ。…巧いこと言えんけど、こう…暑苦しい≠チちゅうの?」
 仁王がそう言い募ると、柳生もうぅんと腕組みをして暫し考え込み、驚いたことに同意した。
「確かにそうですね」
 じゃろぅ、と仁王はやや満足げに頷いたが、流石に柳生はフォローの言葉を忘れない。
「しかし、真田君にもいいところはそれこそたくさんあるわけですし、個人の好みの問題もありますから。なんだかんだ言って、もう一年くらいにはなるでしょう?充分仲良くやっている証拠です」
 それで話の流れは無難なところに落ち着きそうだった。しかし、仁王は更に激しく手を振ってそれをかき回した。
「好みの問題=Hは!馬鹿馬鹿しい!ないないない、んなモンは!」
「…は?」
「ここだけの話じゃけど、なんで幸村が真田と付きおうとるかゆぅとな」
 ぐっと潜められた仁王の声に、柳生は勿論、事情がすべて理解できているわけではない切原も固唾を呑んで聞き入った。
「一番最初に告ったんが真田だったから、ゆうだけの話じゃ。別にアレやのぅても良かった。本人がそう言いよったけぇ間違いなかろ」
「まさか!」
 柳生は言下に否定した。しかし彼は切原の目にも明らかなほど動揺している。当然、切原よりも付き合いの長い仁王の目にもそう映っただろう。仁王は、随分と冷たい声で、言った。
「遅れを取った、一生の不覚ちゅうて思ぅとるじゃろ」
「えっ…」
 普段の落ち着き振りを完全にどこかへ忘れ去った風体で、柳生は絶句した。紛れもなく、それが何よりの答えだろう。
「いっつもみたく涼しい顔しとれんのかい…傷つくわ、ったく」
 切原の耳に、また机に突っ伏した仁王が聞こえるか聞こえないかの小声でそう呟いたのが聞こえた。だがすぐにいつもの飄々とした調子を取り戻すと、何がおかしいのか僅かに笑みを含んだ声音で言った。
「けど、よぅ思い返してみりゃ、そもそも真田のヤツ、告る前から番犬みたいに四六時中幸村にくっついとったしの。あんなんが張りついとっちゃ、他の奴らにゃ手ぇ出せんわな」
「仁王君、それ以上は…」
「晴れてアレが彼氏じゃ、ゆぅことんなりゃ、誰もますます下手にちょっかいかけられんし?おまけに真田の辞書には心変わり≠セの責任逃れ≠ネんぞの便利な言葉もなさそうやしのぅ」
「仁王君!」
 柳生が困惑顔でたしなめるのも意に介さず、仁王はついにくすくすと笑い始めた。笑いながら俯けていた顔を首だけ動かして柳生に向ける。その目はおよそ笑顔とはかけ離れ、暗く凍て付いた光を放っていた。一体何が仁王をそうさせたのか切原には全く状況が理解できないが、解らないなりにもかなり恐ろしい。
「柳生、ついでにもう一つ教えといちゃるわ。あの天才にもな、できんことはあるんよ。別れ話≠ネ。あいつは別れ話≠フ切り出し方はよぅ知らん。だからもう、あいつらはどっちもこのまま一歩も動けん。どんだけ気まずぅなっても一緒におることしかできんのよ。永遠に」
「すみません。私の配慮が足りませんでした。謝罪します」
 仁王の言葉を突然柳生がそう遮った。
「ですから、もうこれ以上は何も言わないで下さい」
「………」
「お願いします」
 だがそれは言葉の意味にはまるで不似合いな、どこまでも感情を排した声だった。それでいてどこか哀しそうにも聞こえる。
 仁王はのろのろと元のように顔を俯けた。そしてうん、と一つ小さく頷く。
「俺もどうかしとった。…幸村のことはちゃんと好いとる」
「えぇ、よく知っていますよ。君たちはいい友人です」
「けど時々な」
「はい?」
「時々、めちゃめちゃ憎たらしいわ。何でじゃろ」
「…すみません」
 またしても柳生は静かに謝罪の言葉を口にした。そして、身動きもできずに見守る切原の目の前で仁王の頭へと手を伸ばす。ゆっくりと躊躇いがちな仕草だった。あたかも何かの痛みをこらえるように幾度か途中で動きを止め、その度に詰めている息を僅かに吐き出しながら。

 やっとのことで柳生の手が仁王の髪に触れた。びくり、とその刹那に仁王の肩がはねたのに驚いたのだろうか、手は反射的に引っ込められた。だが、一瞬ののちに再び同じ場所に戻された。それだけではなく、恐る恐るといった風ながらもその手は仁王の髪を撫ぜた。
「悪いのは私ですから」



「とにかくですね」
 何度か咳払いをしてから、柳生は気を取り直したように再び話し出した。切原にとってはラッキーなことに、補習への意欲はだいぶ削がれているようだった。長い指で前髪の生え際辺りを揉みつつ、慎重に言葉を探している。
「上級万翼長が尊敬に値する人物だというのは間違いのないことです。さっきの仁王君の言い方では誤解されるかもしれませんが、決して冷たい人だというわけでもない。普段は…優しい人ですよ。空を眺めるのと猫がお好きで。そうですよね、仁王君?」
「あと粗大ゴミな。デカいガラクタが捨てられとるん見ると、何や知らん突然ガーっちゅうてテンション上がりよるんじゃ。けったいなこっちゃ」
「…は?」
 耳を疑うその言葉に切原は思わず聞き返したが、柳生にまで「そうなんですよね、あれこそまさにアドレナリン大放出状態ですよ」などと頷かれてしまっては信じるほかなかった。あんなにキレイなのにどうやら本当に変わった人らしい。人は見かけじゃ解らないっていうやつだろうか。
「ちゃんとゴミ捨て場とゴミのスケジュールは抑えとるよ」
「流石です。相変わらず仕事が速いですね。…ですが、我々としてはなるべく上級万翼長がその日にその辺りに近づかないようにした方がいいのではないでしょうか?イメージというものもありますし」
「お前さんがそうせぇて命令するならそうするわ」
「…そうして下さい」
「おぉ、任せろ。内緒にしとくけんね」
 柳生と仁王の間には、対幸村用の協定が取り交わされたらしい。命令されている¢、の仁王の方がどうにも態度が大きいのは二人の性格の違いのせいだろうが、それにしてもいつの間にか機嫌を直した仁王は嬉しそうだ。
「ちょっといいスか?」
 切原は小さく手を挙げた。空気が和んでいるうちに、もう少し聞いておきたいことがある。
「その、真田サンってやっぱ幸村…えっと上級万翼長と一緒にココ来るんスよね?どんな人なんスか?」
「…あ〜」
「…それは」
 二人の先輩は一瞬顔を見合わせ、すぐに互いに目を逸らした。先に口を開いたのは仁王だった。だが口調には元気がない。
「赤也も見りゃすぐ解る。一番偉そうにしよるけぇ」
「仁王君!」
 慌ててその言葉を遮った柳生は、切原に向けて笑顔を浮かべて見せた。キラキラと爽やかで健全で魅力的、そして完璧な作り笑顔だ。
「万翼長です。こちらでは歩兵として戦うと聞いています。歩兵というのはご存知ですか?ウォードレスは着用しますが、ほぼ生身の状態で前線に出るんですよ。小型の幻獣の足を止めたり、索敵をしたり、戦車兵のフォロー役といった感じかと思いますが…」
「真田なら生身だろうが一人だろうが真正面から敵陣に突っ込んで斬りかかる。フォローするんは戦車の方じゃ。賭けてもえぇ」
 その賭けはそもそも成立するのでしょうか、と爽やかな笑顔を虚ろな空笑いに変えた柳生は、そのまま力なく続けた。
「…とにかく強くて正しくて厳しい人ですね。何と言うんでしょう…その、父親的な、とでも言うか…同い年ですが…まぁ信じてついて行けば、君もきっと強くなれますよ」
「暑苦しいんじゃ。いまどきスパルタなんぞ流行らん。赤也も気ぃ付けたがえぇ。何ぞ悪さしよるん見つかったが最後、問答無用でビンタが飛んでくるけぇの。時代錯誤もはなはだしいわ…」
 柳生のフォローを仁王は相変わらずばっさりと切り捨てた。しかし、そのすぐ後に「けど、強いは強い。真田も鬼じゃ」と呟いた。認めてはいるらしい。
「鬼…っスか…」
 切原は少し考えた。その真田という兵士は相当に強いらしい。当面の目標にするにはいいかもしれない。そいつを倒して、自分が一番になるのだ。化け物のように強い≠ニいう幸村に挑戦できないのは残念だったが。
「上級万翼長と真田サンとじゃ、やっぱ上級万翼長のほうが強いんスよね?階級も一コ上だし」
 柳生と仁王は再び顔を見合わせた。
「階級と強さとは比例せんし、あいつらは強さの質が違う。幸村が昇進したんはあの負傷のせいもあるじゃろうしの」
「それ以前の昇進はいつも同時期でしたよ。何しろ彼らは二人一組、複座型の戦車兵でしたからね。複座型に必要なのは個々の戦闘力以前にパートナーシップ」
「一足す一を三とか四とかにする、ちゅう非論理的な理屈のアレな。俺にはイマイチ解らんがのぅ」
 今度の二人は見事に息の合ったところを見せた。仲がいいのか悪いのか、本当に理解に苦しむ。柳生は首を傾げた仁王に顔を向けると「君も基本的には柳君と似たような世界の住人ですからね」と少し笑いかけて、また続けた。
「まぁ、それはさておき、あの二人にとって重要なのはどちらが強いかではなくて、互いに巧く補い合って可能な限り死角を減らすことなんですよ。尤も個人的には柔よく剛を制す≠ニは真理だと思いますね」
 やはり柳生は幸村びいきのようだ。そこへ仁王が異を唱えた。
「けどな、真田も図体には似合わんスピード持っとるけぇ、本気でやりおぅたらなかなか攻撃も当たらんわ。いくら幸村でも手こずるじゃろ」
「お忘れですか?パワーなら幸村君のほうが上のはずです。一度クリーンヒットしたら勝敗は決するでしょうね」
「その前にスタミナ切れする可能性もあるわな。その点、真田は丈夫で長持ちじゃ。結局男に一番重要なんは、そこらへんかもしらん…丈夫で長持ち」
 そう言い、仁王は自分の言葉に何を納得したのか一人でうんと頷いた。そしてやおら柳生の方に視線を移すと、熱のこもった眼差しでその頭から腰の辺りまでを何度も眺め回す。柳生は居心地の悪そうな顔になって、仁王から少し身を引いて座り直すと、低い声を出した。
「…それは私に対して何か含むところがある、ということでしょうか?」
「なんもなんも。お前さんも余裕で平均点越えしとるよ。さすが優等生は何やらしてもそつがないのぅ。体力つけんならんのは俺の方じゃ。って言うか、な、手っ取り早く今からウナギ食いに行かん?」
「行きません!………とにかく!」
 なんだか会話の流れがよく解らない方向へ行き始めたなぁと思う切原の前で、柳生は珍しくもそう声を荒げたが、すぐにまた平静な口調に戻った。
「とにかく、真田万翼長は厳しい人ですから、くれぐれも粗相のないようにお願いしますよ。あぁ、ですが、頑張りはちゃんと認めてくれますからね。必要以上に萎縮することはありません」
「こいつが萎縮するようなタマかい。早ぅ真田にケンカ売りとぅてうずうずしとる、ゆぅ顔しとるわ」
「…実は私もそう思っていました」
 読まれていたか、と思いはしたが、切原は殊更明るい声で否定した。
「イヤだなぁ、先輩方。俺、ンなことしませんって〜!」
 だが柳生は右手で顔を覆った。信用されていない。そして仁王は切原の言葉はまるで耳にも入らない風で、「おぉ柳生、俺たち、やっぱ気が合うのぅ」などと呑気なことを言っている。気が合うと思っていたのか…と変な感心をした切原の目の前で、柳生が眼鏡の下、眉間の辺りを指で摘む。仁王の言葉が原因なのは間違いなかった。そして、彼はそれについて正反対の見解でいることも。それにしても、この二人の間にも…そして他の上級生二人の間にも、当事者以外には理解できない難しい問題が横たわっているものらしい。

 大丈夫なんだろうか。
 
 切原は初めて前途に一抹の不安を抱いた。



 口を開いたら最後、幾つもの英単語とカ行変格活用が一次関数のグラフに乗って遥か彼方へと飛び去って行きそうな気持ちだった。X軸が時間、Y軸は距離。忘却のブラックホールへと続く無限の直線。進むスピードは恐らく音速。ついでに圧力の単位は、N/m2 (ニュートン毎平方メートル)、或いはPa(パスカル)とも呼ばれるらしいが、柳生が自分にみっちりと不定詞を詰め込んだ時の圧力の求め方は算定不能だ。そういうことを知る方がよっぽど価値がありそうなのに。
 切原はそんな事を考えながら、鉛のような足を引き摺って学生寮までの暗い道のりを辿っていた。精神的な疲れは、身体的な疲労よりも更に堪える。取り敢えず、今日一番良く解ったことはそれだ。柳生は多分不本意だろうが、事実だから仕方がない。
 隣では仁王がいたく御機嫌な様子で低く歌を歌っている。彼は結局、何をするわけでもなく一日のほとんどの時間をだらっと机になれついたまま、勿論補習の内容には一切口も挟まず過ごした挙句、昼食と夕食はちゃっかり柳生に奢らせるという離れ技をやってのけたことになる。少ない労力で二食を得る、というのは考えようによっては非常にいい仕事をした≠ニいうことになるのかもしれない。しかも夕食に選んだのが定食屋つるぎや≠フメニューの中でも一番ゴージャスなデラックス定食≠ニきた。自分ですら最初は遠慮してA定食≠ノしたというのに。まぁ、柳生が「切原君もそちらにしたらどうですか?」とありがたい提案をしてくれたので、結局は同じ物を食べたわけだが。
「お〜、虫も鳴いとる。もう秋やのぅ」
 一曲歌い終わったのか、仁王は突然そう独り言のように呟いた。
「え〜?まだ全然暑いっスよ」
 切原はうっかりそう言い返して、しまったと口を押さえた。今の一言に、英単語が少なくとも四つは一緒に乗ってどこかへ消えたような気がする。だが、時、既に遅し、だ。がっくりと肩を落とした切原を横目に、仁王はふふんと笑った。
「解らんヤツには解らんもんじゃ」
「何スか、それ!?」
「虫の音(ね)は、えぇ。恋歌じゃけぇ」
「…は?」
 一体何を突然言い出したのかとまじまじ自分を見つめる切原に、何故かにっこりと不気味に微笑んで仁王は続けた。
「自分はここに居(お)る、気付いて欲しいゆぅて必死で鳴きよる」
「…はぁ」
「俺と一緒よ」
「………?」
 そして仁王はいかにも切なそうに芝居がかった溜息をついた。切原は完全に話の行方を見失い、ついでに圧力の求め方もそのまま道端に落っことした。―不定詞はとうの昔に行方知れずだ。

 細い月が空の低い位置にあるのを眺めながら、仁王はまた小さく歌い始めた。さっきの歌とは違う、スローで語りかけるような旋律。改めてそれを聴くと、彼は随分と歌が巧いのだということに気付く。決して伸びやかな声というわけではなく、逆にところどころかすれて引っ掛かるような箇所すらあるが、心の奥の方のどこかにそのままストレートに染み入っていく、そんな歌声だった。
 これも恋の歌なのだろうか。誰かを想って歌っているのか。随分と、寂しい。
 それが切原には今ひとつピンと来なかった。恋というものは、嬉しかったり楽しかったりするものであって、寂しいとか哀しいといった感情とは無縁だと思うからだ。
 僅かな街灯が光る中をそのまま静かに歩き続けた二人は、寮の正門に辿り着いた。ドアの前にはどういうわけか寮長が待ち構えている。切原と仁王は一瞬顔を見合わせ、それぞれに現在時刻を確認した。まだ門限には間がある。咎め立てされる謂れはないはずだ。
「よ、どうかしたんかい」
 仁王はつかつかと歩み寄ると、至ってぞんざいに寮長―岡島に問いかけた。岡島と仁王は階級は同じだが仁王の方が先任に当たる。あからさまに厭な顔をしたものの、岡島は答えた。
「柳千翼長殿がまだお着きにならない」
「…あぁ!そういや、来るっちゅう話じゃった」
「仁王百翼長!いくら前の部隊からの知り合いとは言え、その態度はいかがなものかと!それに、千翼長殿の入寮に備えて今日は部屋の片づけをしていただくことになっていたはずだが!?」
 岡島は、忘れとったわと呑気に納得した仁王を睨み付けて、ここぞとばかりに責め立てた。仁王が岡島を嫌っているのと同様、岡島の方も仁王のことを目の上のたんこぶだと思っているのは明らかだったが、普段はなかなか付け込む隙がないのだ。だが仁王は平然としたものだった。
「向こうの方が絶対荷物多いしな。おまけにアイツは本を山にしてだ〜っと積みよるけぇ、普通に散らかすよりタチ悪いんじゃ。ヘタしたら俺の陣地がのぅなるわ。これは戦争じゃ」
「仁王先輩、陣地ってのは幾らなんでも…」
 アンタ子供か、と言いかけて、切原は思いとどまった。仁王は気にしないだろうが岡島の目の前では拙い。
「いかんかのぅ?んじゃナワバリ?」
「いや、そうじゃなくって」
「…テリトリーかいや?」
「良く解んないけど違うッス!」
 自分を無視した二人の遣り取りに、岡島はぶるぶると肩を震わせ始めた。相当、頭に血が上っているらしい。あろうことか、仁王はそれをふふんと鼻でせせら笑った。
「柳千翼長とは前の寮でも一緒の部屋に居ったし、互いに気心知れとるよ。こう見えても仲良しさんじゃ」
 千翼長、という単語にかなりのウェイトをおいて岡島にプレッシャーを掛ける。
「アイツは一言でゆぅと個人主義の変人じゃけど、仲間はそれなりに大事にしよるし、物事に動じん…ちゅうか、なかなか出来たヤツよ?ま、今日みたいに時々自分の都合で急に予定を変更して、誰にも知らせんとそのまんまってこともあるけどな。…第一面倒くさがりじゃけぇ、出迎えなんぞ」
 仁王は寮長の傍らを通りすぎ、玄関ドアを開けながら付け足した。
「元々自分から要らんゆぅた筈じゃ。違うか?」
 そのままさっさと中へと入ってしまう。切原も慌てて後を追った。一応は岡島に頭を下げることは忘れなかった。



「よかったんスか?あんなこと言っちゃって」
 階段を上る仁王の後を追いかけながら、心配した切原はそう問いかけた。しかし仁王の方はまるで気にした様子もなく、「岡島な。あぁいうの見ると、どうも虐めたくなるわ」と軽く答える。ますますカッコいい、と切原は仁王を尊敬した。…少し変な先輩だが。そして一応聞いてみた。
「それよりその、えっと千翼長でしたっけ?ほっといていいんスかね?」
「あぁ、柳な。気にしなさんな。アイツはマジほっとかれる方がえぇんじゃ。なんせ変わりモンじゃけぇ」
 仁王は事もなげに言い切った。
「…変わり者って…」
「変人」
「言い換えればいいってもんじゃないっしょ!?ってか、ウチの部隊、もしかして変人ばっかっスか!?」
 切原の失言に、仁王はげらげらと笑い出した。
「そう言やぁそうやのぅ。なんせ類は友を呼びよるけん。赤也も立派な変わりモンに育つとえぇ」
「バカ言わないで下さいよ!!じゃなく、そこ否定して欲しいっス!!」
「うるさいのぅ…んじゃ個性的?」
「そんなに変わらないっしょ!!だから言葉を変えるんじゃなくって…」
「や〜、柳はホンモノの変人ぜよ」
 仁王はあくまでそう言い張り、そしてどう説明すりゃえぇんかのぅ、と首を捻ってからまた話し始めた。
「柳生がな、完全主義者じゃとするとな。自分に厳しいだけやのうて、周りにも高いレベルを要求するわな。なかなかできんじゃろ、折角の夏休み最後の一日をできの悪い後輩の勉強見て過ごすなんぞ」
 仁王はどういうわけかそこで夢でも見るような視線を虚空に彷徨わせた。
「けど柳は個人主義者じゃけぇ、一人でガシガシ自分の道を進みよる。言うなれば職人か?他人のことには興味なくて一切合財メタメタに切り捨てて行くっちゅうかな。そもそも興味ないもんは見えんようになっとるんじゃ。仕様で」
 お前さんも、会えば解るじゃろ、と仁王は一瞬だけ人の悪そうな笑いを浮かべ、すぐに続けた。
「けど、その分我が事にゃぁ達人芸じゃし。そういうところ、柳生もリスペクトしとってな、仲えぇんよ」
「…リス…?」
 言葉の意味がよく解らずに、切原は一瞬考え込んだ。仁王は構わずに先を急ぐ。
「アイツも戦車に乗っとったんよ。ま、俺が今まで見た感じじゃ、お前さんの闘い方は乱戦上等ってな真田タイプじゃろうし、参考にはならんかもしれんがの。戦場じゃな、バラバラ何十発のミサイル撃ち込むよりここしかない≠艪」一点をピンポイントで撃ち抜く方が大事な局面がある。柳はそれをよぅ知っとった。…変人じゃけど」
「………はぁ」
「まぁ気はラクかもしれん。基本的に煩い事は言わんしな。用がなきゃほっときゃえぇんよ。向こうから話し掛けてくることもそうそうなかろうしの」
「えっ、でも」
 切原は戸惑った。皆と仲良くしろと教えてくれたのは他ならぬ仁王自身だったし、確か柳は整備主任の筈だ。これから色々と世話になることもあるだろう。敬遠しているだけではよくないような気がする。
 そう言ってみると、仁王の表情が曇った。
「赤也がどうしても、ゆぅなら止めはせん。…けど」
 そこで大きく溜息をついた。
「けど=A何スか?」
「アイツはホンマの変わりモンじゃ。天然記念物級じゃ」
 仁王はそうとどめを刺した。冗談で言っているような雰囲気ではない。残念ながら。
「そ…そっスか…」

 切原がどっと疲れを感じたちょうどその時、二人は仁王の―そして柳の部屋の前に到着した。仁王が無造作にドアを開ける。見るともなしに部屋の様子を目にした切原は、一瞬目を疑った。主に衣服の類があちこち有り得ないほどに散乱していて、空き巣被害にあって荒らされた部屋、そんな形容がピッタリの惨状だった。自分と桑原の部屋もお世辞にも綺麗とは言いがたい状況ではあったが、ここまで引っかき回した♀エはない。
「ど、どうしたんスか、これ」
「お?」
 仁王はぽりぽりと頭を掻いた。
「朝、着てく服に迷ぅてな。あれこれとっかえひっかえしよったらワケ解らんよぅなって。結局、ガッコ行くならて制服にしたんじゃけど」
「あ〜、改造しまくってるけど、確かにソレ、一応は制服っスよね。ってか、アンタ最初っから学校に来るつもりだったんスか!?」
「当たり前じゃろ」
 何を今更、とでも言いたげな様子で仁王はあっさり答えた。
「ずっと気になってたんスけど…何しに来たんスか?」
「何しに、て…柳生がマンツーマンで赤也の勉強みちゃる、ゆぅたけぇ」
 そこで何故か仁王は言いよどんだ。目も微妙に明後日の方向を向いている。
「こりゃ呑気にバイトに行っとる場合じゃなかろ、ってな。その、何てゆぅか………あ〜…面白そう、じゃしのぅ」
「バイトサボってまで見物するようなもんでもないっしょ!他人の不幸がそんなに面白いんスか!?…ん?バイト!?」
「しとるんよ。裏マーケットで」
 ポテト揚げるよりはナンボか時給えぇし、おもろい噂話も聞けるし、裏焼きそばパンとかカンタンに手に入るしな。
「え〜、いいなぁ!!」
 切原は羨望の目で仁王を見つめた。裏マーケットというのは新市街のアーケードの路地裏にある雑貨店の通称で、食品や文房具を始めとして種々雑多な品を取り揃えている。それだけならまだ普通だが、軍の払い下げ品や非合法な薬品などといった表立っては販売できないような品もこっそり扱っているというまことしやかな噂が囁かれていた。
 その真偽については、切原は今のところ知る術を持たないが、少なくともそこでしか手に入らない裏焼きそばパン≠ニいう代物が年少の学兵たちにとって一種のステータスであるということはよく知っている。だが、売りに出される数そのものが少ない上に、普通の焼きそばパンの十個分の値段のそれを、切原が手にしたことはまだ一度もないのだ。そう言えば、確かに以前、仁王が食べていたのを見た覚えはある。
「俺もバイトしよっかな〜」
「アホ抜かせ、ヒヨッコが」
 声とともに切原の後頭部を鈍い衝撃が襲った。まともに平手打ちを喰らったらしい。痛む部分を両手で抑えながら、文句を言おうと向き直った切原は、そこに随分と真剣な表情の仁王を見て思わず黙った。
「いつも自分が一番にやるべきことは何かをわきまえろ。特に戦闘員ならな。俺たちはある意味、お前らに命預けとる。未熟なパイロットのあおり食らって死ぬのだけは御免じゃ。バイトするならするで構わんよ。けど、今のお前には、もっと他にやらんならんことがあるじゃろ。そんなようで、言うことと違うわ。たとえ冗談でもな」
 怒気をはらんではいたが、冷静な言いようだった。そしてあまりにも尤もな言い分。切原の頭は、自然に垂れていた。
「すみませんでした!以後、気をつけるっス!」
 それを見た仁王は、少しばつが悪そうな顔になった。
「ん、まぁ…解ってくれればえぇんよ。ちゃんとしたパイロットになりゃ、バイトでもストーカーでもすりゃえぇし」
「ストーカー?」
「きゃー、切原君ステキ〜!コレ貰って〜≠ネんつって、誰かから裏焼きそばパンでもふりふりエプロンでも貰えるようになるじゃろ」
「ふ…ふりふり…??」
 所々に挟まる切原の疑問は全て置き去りにして、仁王は続ける。
「引っ叩いたんは、悪かったわ。こんなんじゃ真田のこと、ああだこうだ言えんわな…」
「イヤ、マジで俺が悪かったっス。一日も早く、エースパイロットになれるように頑張るっス!!」
 切原は真剣にそう言った。仁王は何か眩しいものを見たときのように目を眇めて、少し笑った。
「そうやのぅ。ほんまもんのエースパイロットになった日にゃ、バイトなんぞせんでも、好きなときに好きなだけ裏焼きそばパンが買えるほどの給料も貰っとるかもな」
「!そうなんスか!?」
 仁王はますます笑みを深くした。
「おぉ、俺より昇進しとるじゃろ。いつかは赤也に仁王百翼長、これから授業サボるよって代返しとけ。命令じゃ〜≠ニか言われるようになるかもしれんの」
「イヤ、そんな言葉は使わないっスよ…」
「ん〜、したら、命令しとくんは今のうち、っちゅうこっちゃのぅ」
「…は?」
 にっこり、と仁王は微笑んだ。愛嬌があるといえば聞こえはいいが、要するに胡散臭さいっぱいの笑顔だった。
「これから部屋の片付け、手伝え。命令な」
「…うぃっス」
 無論、切原に選択権などなかった。




葉桜の頃

 真田君、と後ろから掛けられた声に、校門をくぐり掛けていた足を止めて振り向いた。小走りに駆け寄ってくるのは柳生だった。珍しいこともあるものだ。
 おはようございます、こんな朝早くから訓練ですかという挨拶は同級生≠ノ対するものとしては少々堅いものだったが、柳生は大抵の場合そんな風に話す。別段気になるほどのことではなかった。
「あぁ、そっちも早いな」
 真田の挨拶も素っ気ないが、こちらも大抵がそんな風だということが解っているから、柳生の方も大して気を悪くした様子もなかった。むしろ、機嫌良さそうに笑顔を見せたほどだ。
「まだ始業時間には充分間に合いますよね。少し、お話ししても?」
 自分の問いかけに真田が頷いたのを確認した柳生は、もう一度笑みを浮かべた。
「週明けに辞令が出るそうですが、早くお祝いを申し上げたくて―昇進、おめでとうございます。百翼長ですね」
「昇進?」
 真田はその言葉を意外な事と受け取った。前回の昇進からまだ一月くらいしか経っていない。確かに戦場での功績を挙げていないと言えば嘘になる。軽度の出撃が多かったとは言え、その度に大勝という結果を残してきたからだ。しかし、早すぎはしないだろうか?
「本部の期待の現れでしょう。結構なことだと思いますよ。小隊の士気も上がります」
「そうか…」
 どことなく曖昧な言葉を返した真田だったが、柳生は強く頷いた。
「同じ隊に優秀なパイロットがいると、我々やテクノオフィサーも仕事に誇りを持てますからね。彼らを支えているのが自分たちだ、と」
 オペレーターである柳生は自分も実際に戦場へ赴き、戦闘員である真田たちと司令部との間で命令や戦況を伝達するのが任務だが、実戦部隊ではない。真田とは同じ学徒兵として授業こそ同じクラスで受けてはいるものの、職務上の付き合い以外は、これまで特に親密な話をしたことはなかった。そういうものか、と思った真田はふっと引っ掛かるものを感じた。彼ら=\複数形だ。なるほど。
「昇進するのは何名だ?」
 答えは予想通りだった。
「勿論二名ですよ。複座型のパイロットが片方だけ昇進するのはおかしな話でしょう?」


 校舎まで続く桜並木を一本一本見上げながら歩いた。三月に入学した頃は蕾すら影も形もなかったというのに、花の季節もいつしか通り過ぎた今は、ざわめく新緑が目に眩しい。程なくして、真田は探しものを見つけた。枝から垂れ下がっている足を。
「幸村!」
 木の下から呼びかけると、幸村が上体を傾けて顔を覗かせた。
「おはよう、真田。今日もムダに早いな」
 無駄とは何だ!?と思わず向きになって言い返した真田には構わず「登っておいでよ。今ならまだ太陽が綺麗に見えるぞ」と言い置くと、幸村はまた半身を枝の中に隠してしまった。話の続きをする為には仕方なく、真田は自分も木登りをしてやっと幸村の隣に辿り着いた。
「ほら、朝の太陽っていいよな」
 指で示された方角に、大きな黄色い太陽が浮かんでいる。言われてみれば、確かにわざわざ眺めるだけのことはある景色だ。朝の光で町並みから闇が払われ、金色に染まっていく様は、戦時下にあるからこそ尚美しく感じられるのかもしれなかった。もしかするとこうして朝日を見ることができるのも今日限りという可能性すらある。今この瞬間にも幻獣が出現し出撃命令が下れば、戦地へ行くことになるのだから。そして、無論、命の保証などどこにもない。
「そう言えば、何か話があったんじゃないのか?」
 すっかり日も昇りきったところで、幸村が沈黙を破った。いつも穏やかで、どこか微笑みを含んだような声だ。聞いていて安心する。真田はそもそもの目的を思い出した。うむ、と頷いて柳生から聞いた情報を持ち出した。驚くかと思いきや、案に相違して幸村は「あぁ、その話か」と肩を竦めた。
「早過ぎないか?」
「どうして?俺たち、それだけの戦功は立ててるじゃないか。当然のことだろう。遅すぎるくらいだよ」
「いや、まぁ、そうだが…」
「最初はさ、俺に複座型パイロットが務まるなんて思わなかったけど、最近は結構上手くやれてるし、良かったな。パイロット二人の連携さえ上手くいけば、複座型の方が戦闘効率は断然いいことだし」
「まぁ…そうだな…」
「この調子でガンガン行くぞ!もっと上まで上らないとな!」
 いきなりテンションの上がってきた幸村を、真田は不思議そうな目で見つめた。
「出世したいのか?」
「えぇ!?」
 真田の疑問に、幸村はいかにもびっくりしたという表情になった。
「まさか、真田は出世したくないの?」
 うぅむと真田は考え込んだ。旧い名家出身の真田にとって、軍隊での出世というものは特別に魅力的なものというわけでもないというのが本音だった。それよりも、今のところは己の鍛錬の方が重要課題だからだ。答えあぐねている真田をどう思ったか、幸村は一人静かに宣言した。
「俺は出世する。その為にここに居るんだ」
 幸村はその言葉を実現させるだろう。真田はそう確信した。そして、自分が既にその片腕であるということも。




鷹乃学習〜たか、すなわち、わざをならう。

 風が吹くとどこまでも続く一面の草が一斉に揺れる。揺れて光る。音がする。ざわざわ、ざわ。毎日、ずっと長い時間眺めていても飽きることがなかった。なんて面白い、綺麗な景色なんだろう。
 小高い丘から見下ろす若い稲の列を、幸村は熱心に見つめていた。こんな風景が存在することすら一年前には知らなかった。緑。光。太陽の熱もだ。それから鳥や虫。生き物は図鑑で見たこともあるけれど、どれもこれも実物の方がよっぽど面白い。
 満足した幸村はそのまま丘の上で仰向けにごろりと寝転がって草の上に四肢を伸ばした。照りつける真夏の太陽がまともに顔を射す。目を閉じた。ここ数日、薄々感じていたことだが「暑い」と「眩しい」と「痛い」とはとても仲がいいらしい。形容詞同士の関係について、そんなことを漠然と考えていると不意にその光線が遮られた。
「またここに居たのか」
 呆れたような声が聞こえる。真田だ。目を開けて見るまでもない。よく知っている。声も、気配も、何もかも。
「居たよ」
 そう答えると「それは解ってる」と少し不機嫌になった声が降って来た。
じゃ、どうして聞いたんだ≠ニ言い返すべきなのかどうか、幸村は迷った。文法上は正しい筈の会話なのに、噛み合わないのはいつものことだ。言葉は難しい。未だによく解らない。迷っている間に自分を見下ろしていた真田が動く気配がした。また熱と光を顔にまともに感じるようになった、のも一瞬のことだった。
「何?」
 目を開けると大きな傘が、ちょうど自分の顔を覆うように広げられたところだった。見たことのない感じの傘だ。骨の数が多い。紙みたいな材質でできている。幸村は手を伸ばして触ってみた。やっぱり紙。でもしっかりしている。艶があって綺麗だ。
「あまり長く日に当たりすぎるのは良くない。蓮二に借りて来た。」
 真田は両膝を地面に着いた姿勢で傘の置き位置を仔細に検討しているところだったが、幸村の様子を見てそう説明を加えた。肝心なことはさっぱり解らない割りには、随分と誇らしげに。
「…凄いな」
 何が凄いのか自分にもまったく解らなかったが、幸村はとにかくそう答えた。今度の応対は正しかったらしい。真田は見るからに満足気にうむと頷くと、幸村の隣にどっかりと座り込んだ。そのまま沈黙が落ちる。影に護られていない部分の手脚がじりじり火照っていくから、時折渡って肌を撫でる風が心地いい。草のざわめく音だけが聞こえる。傘の暗い赤で半分隠された視界から真田の方を覗くと、手が見えた。忙しなく動いている。手元の草を選り分けるような仕草。何だろう、と注目する幸村の目の前で、真田の手が一枚の葉を毟り取った。
 微かに震える音が鳴った。ピィ、ピィ…プワー。不安定に揺れる頼りなげな、音階とも呼べないような音の連なり。どこかで聞いたことのある気がする。埋め立てられたはずの記憶の底に、ほんの僅かに残った澱を緩やかに揺すり起こす不思議な音。その源が真田だという事に思い至るまでには少し時間が掛かった。
「…何?」
 幸村は傘の下からもぞもぞ四つん這いになって真田の許へにじり寄った。その唇に草の葉が押し当てられている。そこからピィと音が鳴った。ますます興味を感じた幸村は真田の口元をまじまじと見つめた。
「そんなにくっつくな」
 葉を口から離し、ついでに視線も微妙に幸村から外して、怒ったというのとも少し違う口ぶりで真田は言った。幸村は無論全く気にしなかった。真田のことは解る時と解らない時がちょうど半々だ。解らないときは無視するに限る。怒ってなさそうな時は尚更だ。
「何だ、それ?」
 真田から葉っぱを取り上げようと、前に投げ出されている真田の脚の上を強引に腹這いで横切って手を伸ばした。
「乗るな」
 一応はそう言ったが、真田のその口調はとても優しいと言ってもいいものだった。そして幸村の望みどおり、緑の葉を渡してくれた。
 幸村は満足して手にした物を検分した。表、裏、どこをどう見ても普通の植物の葉だ。名前まではよく知らないが、今この場所に同じものがたくさん生えている。これがさっきの音の正体なんだろうか?
 好奇心のままに、試しに自分もそれを口に当ててみた。だが何も起こらない。幸村は少し首を傾げて、同じ種類の葉をもう一枚ちぎり取ると真田に突き出した。真田は黙ってそれを受け取った。
「吹くんだ」
 一言そう言い置くと、さっきと同じように葉を口元に持っていき、ビィィーっと上手に鳴らした。
「凄いな」
 今度の幸村のその言葉には、偽りのない賞賛の響きが自然にこもっていた。そうかと真田は素っ気なく答えたが、表情がますます柔らかくなったのは間違いなかった。
「俺もやる」
 幸村は宣言した。真田から二枚目の葉も奪い取った。物はついでだ。

 ゆっくりと音がつながっていく。単調と言えば単調な音色だが、息遣いと共に震える飾り気のない響きは辺りの景色にも真田にもよく似合っている。幸村は真田の脚の上に跨って、彼が草笛を吹くのを真正面からずっと眺めていた。自分で鳴らすのは諦めた―取り敢えず今の所は。認めるのはイヤだが、案外難しいものだ。夜にでも一人で練習しよう。
 真田が吹くのを止めた。どうやら一曲終わったらしい。きちんとしたクラシックのコンサートに行ったときと同じように、幸村は真面目な顔で拍手した。そして、言った。
「凄いな、真田」
 造作もないことだ、とか何とか、まるでいつもとは違う落ち着きのない調子の小声で真田は賞賛に応えた。至近距離で自分を見つめる幸村から視線を思い切り不自然な方の地面に逸らしながら。例えば明後日の方向というものだって、それよりはずっと近いだろうというほどに。
「キスは下手なのにな」
 幸村は軽い気持ちでそう呟いたに過ぎなかった。悪気も作為もなく、ただ素直に思ったことを。だがそれは大きな失言だった。その言葉を聞くや否や、真田は憤然と顔を上げて幸村を睨んだ。
「何だと!?」
 しかし、彼は見る間に勢いを失った。頭が垂れ、肩が落ち、いつもびしっと伸びている背筋までもが曲がった。普段他人の事になどほとんど関心を払わない幸村も、流石にちょっと拙いと思ったほどだ。何しろ、よく解らないが多分、自分のせいだという可能性もないわけではない―いや、むしろ高いと言うべきだろう。とは言え幸村にはこういう場合、何を言ってやればいいのか、さっぱり見当が付かない。真田は面倒だな。自分のことを棚に上げてそんなことすら考えた。
「………下手か?」
「え?」
 下から響いた低い声が短い疑問文だということを理解するのに一呼吸を要した。目的語を類推するのに更に半呼吸。あぁ、そうそう、キスの話だった。
「え〜と…」
 答えを探すのには更に手間取った。幾らなんでも「うん、下手だ」と断言するのは憚られる。たとえそれが事実だとしてもだ。そのくらいのことは学習した。それでも何を言っていいのか解らないのは、さっきまでと全く同じだ。幸村も途方に暮れた。
「………すまんな」
「え…」
 突然真田が謝罪の言葉を口にした。何に対する詫びなんだろう?謝られても困る。自分は怒っていないし、むしろ怒ったのは真田であって、それは自分に非がある(らしい)のに。幸村はますます困った。
「その、不慣れなのは…重々承知している。それに…なんだ、いざとなったら…余裕が、ない」
 相変わらずうな垂れたまま、真田はそんなことを言い出した。上体が更に折れ曲がって、頭が幸村の胸の少し下に触れた。幸村は反射的に真田の肩に手を回し、反対の手で頭を抱いた。
「気にしなくていいぞ。俺も気にしてないからな」
 それは本当のことだったから、幸村の声も自然と優しくなった。幸村の価値基準は基本的に戦闘技術に関係する分野においてのみ働く。キスの巧拙が生死に無関係な以上、そんなことを気にするのは全くもって時間の無駄だ。だが真田は違った。そうとはっきり口にはしなかったが、大いに気にしていた。幸村の体にまるでしがみ付くように抱きついて、首を振った。
「気にするのか」
 幸村はほんの少し呆れながらその頭を撫でてやった。本当に面倒な男だ。でも仕方がない。そこそこ役に立つ仕事≠フパートナーだし。知らないことを教えてくれるし。文句は多いが、いつも言う事を聞いてくれるし。それに長い夏休みにどこにも行く当てのなかった幸村を、こうして一緒に実家に連れ帰ってくれている。お蔭で山とか家族とか池とか骨董品とか田んぼとか御先祖とか初めて見るものがたくさんあって、とにかく退屈しない。ギブアンドテイクを計算したら、自分の方が債務超過になっているような気がする。少し清算しておくのも悪くない。
「練習するなら付き合うぞ」
 真田がようやく顔を上げた。喜びの表情も確かに浮かんでいるようだが、どうもそれだけではない。何か文句の一つも言いたげな複雑な表情をしている。幸村は首を傾げた。
「当然だ―一人でできる訳がなかろう」
 むっつりとした表情を作って、真田は小さく言い捨てた。視線は再び逸らされていた。そうか、これが照れ隠しってやつだな、と幸村は直感した。

 真田の肩に手を乗せ、一応軽く目を閉じて待った。気配が近付いて来る。何だかくすぐったいような感じ、悪くない気分なのが不思議だ。どうしてだろう、と思ったときに唇に唇が当たった。毎度のことながら「当たった」という形容が一番しっくり来る。しかもそれが何の変化もない一本調子で何度も繰り返されるものだから、幸村はいつも啄木鳥(キツツキ)を連想してうっかり笑い出しては真田の機嫌を損ねるのだ。でも今日は我慢だ。幸村は真田の肩に置いた両手にぎゅっと力を込めて耐えた。
 いつになくおとなしい幸村のそんな様子に、真田の方もどこか戸惑っているようだった。その証拠に唇が触れたのはほんの一、二度きりで、あとは大きな手がぐしゃぐしゃと髪をかき回す感触がするばかりだ。多分不器用な真田にしたら、これでも細心の注意を払って頭を撫でているつもりなのだろう―当初の目的からはかなりずれている気もするが、これはこれで結構ありかも。幸村がぼんやりとそんなことを考えていると、手の動きが止まった。かすれた声が小さく名前を呼ぶのが聞こえた。
「うん?」
 いいぞ、口説き文句を吐くにはジャストタイミングだ。何でも言ってみろ。心の中でそう思いつつ、幸村は目は閉じたまま可愛く首を傾げてみせた。
「…脚が」
「脚?」
「脚が痺れた」
「………」
 目を開けると、真田の不機嫌さ丸出しの顔があった。だがやはりその視線は逸らされている。顔が赤いように見えるのは、怒っているからではなさそうだ。照れ隠しってやつだな、と幸村は確信しながら、黙って脚の上から下りた。替わりにその隣にぴったりくっついて座ると体重を預けた。上目遣いで真田を見つめ、完全に調整した魅惑的な微笑みを浮かべた。そして、もぞもぞと居心地悪げに身じろぎする真田の、その痺れた太腿の辺りをぽんぽんと叩いてやった。
 期待通り、真田は悲鳴を飲み込んで悶絶した。幸村は腹を抱えて笑った。さっきはあまりにも期待を外してくれたから、そのお返しだ。…期待?自分が一体何を期待していたというんだろう?
 幸村がほんの一瞬気を逸らした隙を、まるで狙ったかのように真田が反撃に出た。肩を捕まえられて、地面に仰向けに押さえ付けられる。不意に目に入った空が青い。青くて広くて滲みもなく明るい。こんな眺めにはまだあまり馴染みがないから、それで却って不安になるくらいだ。だから自分に覆いかぶさって来た真田の姿が青すぎる青を遮ったときには安心した。
「脚は?」
 一応そうは聞いてみたが、幸村のシャツのボタンを外すことで手一杯になっている真田から返事らしい返事は返って来なかった。まぁいいか。男というものは基本的に一度に二つ以上のことは考えられない。慣れた重みを受け止め、よく知っている背中に手を回しながら幸村はまた目を閉じた。瞼の奥にゆらゆらと波打つ草の波がいつまでも続いていた。

グランロマン
Grande Romance


第3幕1場

 リビングに一枚だけ絵を飾るとしたらどんなものにするかという話題と共に、遅めの昼食は静かながら楽しく続いた。大通りから少し外れて小ぢんまりとしたレストランのテラス席には他に人影もない。ただ初夏の爽やかな風が時折緑の葉を揺らしていくだけだ。幸村はあまり周囲の視線を気にしていないようだ、ということは美術館でも薄々感じたが、さすがに柳生は多少落ち着かない気分でいたので、これはありがたかった。ゆっくりと会話と食事を楽しむのにはまさに打ってつけだ。

 ターナーもいいのではないかと思う、と柳生が意見を述べると、幸村もこっくりと頷いた。
「でもリビングにはちょっと重くないかな。雰囲気が」
 彼は明るめの色調や雰囲気を好む。たとえばさっき一緒に観て来た印象派の絵画のような。ぱっと人目を惹く華やかな絵は、どこか彼自身にも似ている。絵の好みはそのまま人となりに通じるのかもしれない、と思いながら柳生は幸村の趣味を尊重して答えた。
「ではターナーは書斎に掛けましょう」
「うん、それがいい」
 食後酒のグラスを傾けつつ、ご機嫌の態で幸村は言った。自然な受け答えだった。まるで新居のインテリアについて相談しあう結婚間近なカップルのように。次に「そうそう、折角ですからルーブルとオルセーには何日か通いたいですね。メトロポリタンはどうしますか?」などとハネムーンのプランを話し始めても違和感がなさそうだ。

 だとしたらどんなに幸せだろう、と柳生は思った。
 たとえば蔦の絡まる小さな白い家。きっと幸村は窓辺に赤いゼラニュームの鉢を飾るだろう。風が吹き過ぎるたびに揺れるブルージュレースのカーテン。犬を飼うのもいい。大きな黒い犬を。天気のいい日曜日には二人と一匹で郊外に足を伸ばして、のんびり散歩を楽しむのだ。―そんな夢のような毎日が、ずっと続く。
 もし結婚するということが、そんな風に彼の微笑を一生合法的に独占できるのと同義だとしたら、自分にはそれを望むことすら許されない。少なくともこの日本では。まして彼の立場を考えれば。
 幸村は天に輝く星だ。多くの人がその姿を仰ぎ見る。憧れ、感嘆の溜息を漏らし、夢や希望を胸に呼び起こされる。一体誰がどんな権利を行使すれば、おこがましくも彼を独占できるというのだろう。星を独り占めにするなど、人にできるはずがないのに。
 それでも近頃の柳生は、いつかは幸運な誰かがその栄に浴するのだと考えて胸を痛めるようにもなっていた。遠くから純粋に幸村を応援し、ただただ好きでいられた頃にはなかった感情だった。もう少し、せめてあと一歩近くから眺めたいという欲望に任せて動いた結果、確かに随分近くに辿り着けたと思う。幸村は自分のことを昔からの熱心なファン≠セと認識してくれている。今日など、すぐ目の前にいる。貴重なオフ日の偶然の邂逅に、仲のいい友達のように笑い、話してくれている。
 テレビ画面の隅にちらりと映った姿を見つけて喜び、初めての特集記事に浮かれて同じ雑誌を五冊も買い込んで悦に入った日々の先に、まさかこんな日が来ようとは、想像もできなかった。
 決して嬉しくないわけではない。近付いて厭なものが見えてしまったわけでもない。
 逆だ。
 眩しい星は恒星で、それ自体が太陽にも匹敵する大きさや熱を持っている。―だからこそ、近づき過ぎるとこうして己が灼けるのだ。普段は取り繕っている外面が焼け落ちて、見たくないもの、見せたくないものが剥き出しになってしまう。もっともっとと浅ましく欲しがる卑小な自分が。誰にも幸村を見せたくない、自分のためだけに歌って欲しいとすら思う自分が。
 或いは万が一、いや何億分の一の間違いで幸村が自分を選んでくれたとしても、そのせいで彼が肩身の狭い思いをすることは確かだろう。たとえ一時でも幸村の笑顔が曇るのかと想像すると、それもまたつらい。とても。

 柳生は憂いと共に自分のグラスに残っていたシャンパンを飲み干した。細かな泡が、喉を突き刺しながら胃に落ちていく。元々ドライなシャンパンだったが、この一口にはどこか苦味すら感じた。
「あれ、もう終わりかい?」
 まだ話し足りないのか、それとも飲み足りないのか。幸村は空になった柳生のフルートグラスを軽く睨んで、不満そうな声を上げた。
「えぇ、私は。あなたはお好きなだけどうぞ」
 ボトルを手にし、幸村のグラスに注ぎ足してやると、それでまた機嫌は戻ったようだ。グラスを持ち上げて、そのまま明るい陽の射す空へと掲げた。
「さっきから思ってたんだけど、綺麗な色だよね。白ワインなのに、本当の金色だ」
「マリア・テレジアは、貴腐ワインがこんな色なのは本物の金が含まれているからではないかと考えて、大学に分析させたそうですよ。まさに自然が生んだ芸術ですね。―結局、人の業(わざ)はことごとく自然には及ばないのかもしれません」
 幸村はゆっくりと瞬きをした。
「そうかもしれないけどさ、俺は舞台芸術なんかは、人にしかできないんじゃないかと思うなぁ…。人が人のために創るものっていうかさ」
 だから俺は、舞台が好きなんだと思うよ。
 そしてにっこりと微笑んだ幸村は、金色の酒をゆっくりと飲み干した。




幕間3-1

 結局今夜の宴は三次会にまでなだれ込んだ。
 仲間たちは三々五々散らばって或いは帰路に着き、まだ余力のある連中は別の所へ繰り出す算段をしている。
 真田は家に帰ろうとしている側だった。もう充分に楽しく飲んで騒いだ。たまにこうして羽目を外すのも悪くはないと思うが、規則正しい生活の方がずっと性に合っている。
 タクシーを拾おうと思いつつ歩き出したところで、左腕に誰かの腕が絡まった。幸村だった。腕だけではなく、体全体でぎゅっと自分に縋り付くようにくっついている。まだ少し冷える夜にはちょうどいい温もりだった。
「どうした」
「蓮二とはぐれた」
 何、と言いながら真田は首を伸ばして辺りを見回した。蓮二も背が高いから、そう簡単に見失うことなどないはずだが。
「…いないな」
 うん、と幸村は神妙に頷いた。
「家の鍵、持ってないんだよね」
 正確に言えば、持たせてもらえないのだ。何かに気を取られた時の幸村が、ターゲット以外の事柄にまったく注意を払わなくなるという悪癖を、蓮二は常に警戒している。持ち物を忘れるのは日常茶飯事だ。故に二人でルームシェアしているマンションの鍵は勿論、小学生の小遣い程度に必要最低限の小銭しか渡さない。流石に時々異議を申し立てる幸村に、「俺が持っていてやるから大丈夫だ」と言っている光景は真田も何度も目にしたものだ。一体何が大丈夫なのか、そしてそもそも蓮二が何故いつも妙に自信満々なのか、真田にはいまひとつ解らないのだが、取り敢えず彼らはそれで何の問題もなく仲良くやってこられたので確かに大丈夫≠ナはあったのだろう。少なくとも今夜までは。
 そう言えば蓮二は乾とかなり盛り上がっているようだった。元々仲のいい幼馴染で、そして似たような性格のライバルでもある彼らは、時々マニアックな二人だけの世界へ行ってしまうことがあるから、今夜の蓮二は真っ直ぐ家に帰るかどうか疑わしい。そもそも幸村を置いていったという辺りからして普段では絶対にありえない失態ではないか。きっと何処かでフェルマーの定理がどうのハイレグの角度がどうのと激論を交わしに行ったに違いない。
「携帯に掛けてみろ」
 真田は提案した。幸村はふふんとどこかひとを小馬鹿にするように笑った。だがそんなところもまた可愛らしい。惚れた欲目を差し引いたとしても、だ。
「真田と蓮二が一緒にいるって解ってる時に、どうして俺が携帯を持たなきゃいけないんだい?」
「…つまり、持ってきていないのか」
「真田だって持ってないくせに」
「む…」
 図星だった。確かにそうだ。携帯は苦手だから、必要がなさそうな時には持たないことが多い。掛けてきそうな奴がその場に勢揃いしている仲間内の飲み会などはまさに不要な時≠フ筆頭だ。
 しかしまぁそれはさておき、今肝心なのは、つまり二人とも蓮二に連絡を取る術がないということだった。
 幸村がしがみ付く力をますます強めた。
「うちに来るか?」
 真田を見上げて幸村はにっこりと笑った。
「他の何処へ行けって言うつもりなのかな?」
 その台詞はちっとも可愛くなかったが、それでもやっぱり可愛いと真田は思った。



 布団は一応二人分敷いた。
 事後の幸村は真田にくっついて眠りたがるので、いつもは一組の布団で窮屈ながらも幸せな眠りにつくのだが、今日は事後ではなくむしろ事故だ。明日も朝から稽古だし、幸村にその気がなければさっさと自分に宛がわれた布団に潜り込んで眠ってしまうだろう。そう考えて。
 だが幸村は思いもかけずすっかりその気だった。真田が風呂から上がった時にはまだ起きており、髪を拭くのを邪魔するかのように真正面から抱き着いてきた。そればかりではなく、積極的に唇をあちこちに押し付けてきさえする。
 幸村の髪もまだ乾ききらない。いつもとは違う、自分と同じシャンプーの香りがごく近くで鼻をくすぐる。普段は香りのことなど滅多に意識しないが、こういう時ばかりはやはりどこか敏感になるのかもしれなかった。
 真田は布団の上に幸村を座らせ、自分もその正面にあぐらをかくと、手にしていたタオルを幸村の頭へかぶせた。蓮二が時々そうしてやっているのを思い出しながら、その髪の水気を取ってやろうとしたのだ。幸村が風邪でもひいてはたまらない。
 できるだけ丁寧にしたつもりだったが、そもそもがさして器用ではない真田の手付きは気に入らなかったようだ。幸村はいきなりぶるぶると頭を振って拒絶した。
「いいよ。そんなことしなくて」
 そして真田の手からタオルを取り上げ、宣言した。
「俺がやってあげる」

 ご機嫌な様子の幸村は奪ったタオルで真田の頭をかき回した。真面目にやっているのか遊んでいるのか判断に苦しむところだ―と言うよりも、酔っているのかもしれない。
 遅まきながら、真田はその可能性に行き当たった。
 幸村は決して酒に弱い方ではないが、時々酒盛りの場に「今日は飲み比べでこいつを潰す」という妙な目標を持ち込むことがある。そう言えば今夜は二次会辺りから随分と跡部に絡んでいたような…。跡部の負けず嫌いも折り紙付きだから、うっかり量を過ごしたということも有り得る。
 寝かせよう、と真田は思った。
 据え膳を食わないのは恥だが、酔ってガードが緩んでいるのをいい事においしくいただいてしまうのもやはり恥だ。何よりも大事な相手なら尚更。
 頭では確かにそう考えているのになかなか動けずにいるのは、膝立ちになった幸村の浴衣の胸の辺りがはだけかけているせいだ。どうにも目のやり場に困って仕方がない。真正面の至近距離で見え隠れする素肌の、そのなめらかな触り心地を知っているからこそ、余計に戸惑うのだ。
 真田が気を揉んでいるのを知ってか知らずか、幸村は「できた」と満足げな声を出した。
「…あぁ、すまんな」
 動揺を気取られないよう、平静を装って真田は答えた。「では明日も稽古だから早く寝よう」と続けるつもりで。だが幸村は相変わらずその気だった。真田の両肩に手を置き、そのまま自分の体重を掛けて押し倒しさえするではないか。
「待て、幸村!」
「…何だよ」
 流石に貞操の危機(のようなもの)≠感じるという本音は言えない。のし掛かっている幸村がじっとりと不満そうな目で見下ろしてくる居たたまれなさとのダブルパンチだ。制止の声を上げたものの、真田はそれきり何を言えばいいのか解らなくなった。

「どうして跡部が幹事なんだい?」
 不意に幸村がそんなことを言い出して沈黙を破った。
「幹事?…今日の宴会のか」
「店決めたし、皆を誘ったし、プレゼントも選んだ」
「あいつは祭りの企画をするのが趣味だからな」
「俺がやるつもりだったのに」
 幸村は今や完全にふてくされていた。やはりどうしていいのか解らずに、真田は取り敢えず片手を伸ばすと幸村の頭を撫でた。まだいささか湿った手触りの髪が掌をひんやりとさせる。
「それに一次会でずっと一緒だったよな?まぁ手塚もいたけどさ、三人で仲良く固まってたじゃないか」
「それは…」
 いくら何かある度に集まって騒ぐ仲の同期とはいえ、別の組に配属された以上、公演や稽古のスケジュールは当然違う。久し振りに逢って他愛のない話をする楽しさ嬉しさは確かに否定できなかった。
「折角の真田の誕生日パーティーなのにさ」
「…幸村、お前…」
 跡部と自分の仲を嫉妬しているのだ、と真田はようやく真相に辿り着いた。無論、それは全くの勘違いだと胸を張って言えることだが。しかしそう考えると今夜の幸村の行動はなんとか理解できないこともない。そしてそれ以上に―
 可愛い。
 ただただ強くそう感じた。
 真田は両腕で幸村の体を引き寄せ、ぎゅうっと抱きしめた。愛する相手が、今、自分の腕の中にいる。そして自分のことを想ってくれている。きっとこの世界にこれ以上の幸せはないだろう。―生まれてきてよかった。
「俺にはお前だけだ」
 自分の胸にあるたったひとつの真実を、真田はそのままそう告げた。
 幸村が身じろぎするのを感じた。頬に唇が触れる感触。ほのかなシャンプーの香り、そして幸村の囁き。
「誕生日おめでとう」
 最高の誕生日だ、と真田は思った。

 廃墟庭園


信仰告白/偶像ヲ崇拝スル異端ノ徒

 強く乳首を摘まんでぎゅうっと捻ると、幸村はほんの一瞬息を呑んで体を強ばらせた。整った顔を僅かに顰められても、いや普段はにこにこと楽しそうに微笑んでばかりいる幸村だからこそ余計に、いつもとはまるで違うその顔を自分だけが眺めているのだという悦びの感情しか湧いて来ない。チタン製の手錠で縛めた上から更に制服のネクタイでぐるぐる巻きにして頭上の平均台に括り付けた両手が時折固く拳の形に握り締められるさまも、大きく割り広げたままそれぞれ別のバーベルに固定した脚のわななきにも、ただただ陶酔感を覚える。自分に嗜虐志向があることは、認めたくないながらも薄々察してはいたが、それが突然、花開いたようだ―優しく気高く美しい幸村、天使にも似たみんなの崇拝の対象、その人を、今、自分が穢している。こんな薄暗い体育倉庫で。

 柳生は固い体操マットの上に座らせた幸村の前に跪いた。四肢を拘束されまったく抵抗できない状態にも関わらず、幸村は恐れや不安の表情など少しも見せずに堂々と威厳すら漂わせた風で支配者であるはずの柳生を真っ直ぐに見上げていた。大きく黒く、強い意志の力で輝く瞳だ。その目に見つめられると、まるで理性が利かなくなる気がする。止めようなどとは思わなかった。それに幸村も何も言わない。シャツを引き裂かれ手荒に胸を弄られても、ただ黙ってされるがままだ。反抗するでもなく怯えもしない。やれるものならやってみるといい。無言のままそう挑発するかのように、幸村の唇はいつもと同じように綺麗な微笑みの形さえ作っている。

 露わにした肌はなめらかで、そっと触れた指や掌に吸い付くような極上の感触だった。傷を付けるのは本当に忍びない、が、我慢することもできなかった。きつく幸村の体を抱きしめた後、そのまま背中の上から下へと強く爪を立てた。二度、三度。それ以上。何度も。抱き着いたままの姿勢で幸村の肩越しに確かめると、新雪のような白い肌に期待通り幾条もの赤く不規則な模様が浮かび上がっている。そんな傷痕を目にしたことで、柳生の精神は一層高揚した。未だかつて感じた覚えがないほどに。
 ―もうどうなってもいい。
 柳生は遂に昏い悦びを解放することを決めた。

 ほくろの一つさえ見当たらないほど美しかった幸村の肌は、今や傷のないところを探す方が難しかった。無数の爪痕、あるいは青痣が縦横に走り、ところどころで薄っすらと噴き出した血の微かな模様がアクセントのように一際目を惹く。まるで彼自身が一幅の美しい抽象絵画のようだ、と思いながら柳生は幸村の細い腰をがっしりと掴み夢中で自分の腰を使った。狭い内部にきつく絞り込まれるような感覚と、灼熱の炎にも似た熱。それは間違いなく至福の悦びだった。それなのに、いや、それだからこそ、なのか、抜き差しするたび、快感よりもまだ足りないという焦燥ばかりが増していく。もっと、もっと深く幸村を貫きたい。蹂躙の限りを尽くし、これ以上ないほど穢して―いっそこのまま壊してしまいたい。
 だが柳生が望むほどしっかりと繋がるには、幸村の姿勢が不安定だった。愛撫の一つもされないまま呻き声も立てずに柳生を受け入れ、一方的な激しい抽挿を意に介した様子もなく涼しげな顔の幸村だが、さすがに自分を犯す男に協力しようはずもない。柳生が腰を掴むのに任せ、あとはだらりと体を弛緩させて、上の方に括り付けられた手首を軸にして左右にふらふらと揺れるに任せている。思うようにならない柳生が焦れるのに、そう時間は掛からなかった。それに昂ぶりの具合ももう最高潮で、逆巻く怒濤が緊急に出口を求めている。迷っている時間はなかった。
 幸村に埋め込んでいた己を引き抜いた柳生は、若干足許をふらつかせながら立ち上がった。それで幸村は支えを失いぽとんと力なくマットに座り込んだ形になり、やや不審気にも、あるいは柳生を侮蔑しているようにも見える眼差しと共に顔を上げた。尚もその口元は微笑んでいる―が、次の瞬間に正しく柳生の意図を把握した彼は、光の速さで目を閉じ唇を固く引き結んだ。初めて見る幸村の珍しい表情に更に深い満足を覚えながら、柳生は幸村の顔に射精した。

 自分で汚れた顔を拭くことすらできずにいる幸村の姿は、それでもやはり美しいと柳生は思った。さすがにずっと閉じたままの目蓋から伸びる長く濃い睫毛とそこに粘りつく白濁した飛沫、黒と白のコントラスト。色素の薄い唇の上にも精液がゆっくりと流れ落ちていく。本当に美しい―この姿をもし絵に写し取ることができるなら。一生、いや永遠に我が物として閉じ込めておけるものを。
 柳生は敬虔な気持ちでもう一度幸村の開かれた両足の間に跪いた。自分の放ったもので濡れて汚れた部分をそっと指で辿り、拭う。そしてその指を幸村の下唇になすり付け、口に押し込んだ。幸村はやはり抵抗しなかった。口腔を乱暴な指に弄ばれながらも、幸村の唇は、再び微笑みのような何かを形作っていた。



 何とか気持ちを切り替えてタクシー会社に電話を掛けた後、柳生は話し声が聞こえて来る調理室に向かった。そこではいつもながらに早起きな真田と、こちらは日曜日の早朝に起きているのは珍しい柳の二人が大きな炊飯器の前で何やら相談の真っ最中だった。
「…おはようございます」
 柳生は後ろめたい気分で朝の挨拶をした。ついさっきまで、欲望の赴くに任せて幸村を散々に陵辱していた身だ、その恋人である真田の前で平静でいるのは骨が折れた。それがいくら夢、妄想の中のことであったにせよ。あれは確かに自分の願望だ―その事実はとても否定できるものではなかった。
 おはよう、と真田は挨拶を返し、柳が「俺はこれから寝るところだ」と言ったのに対して「日曜日だからといってたるんどる!」と文句をつけたものの、機嫌は非常によさそうだった。柳生はふと調理台の上の見慣れないものに目を止めた。精緻な細工の螺鈿の重箱―見たところ国宝級とまではいかなくとも重要文化財クラスの素晴らしい細工物だった。真田の持ち物で間違いないだろう。状況から考えて、真田は弁当を用意しようとしているらしい。…どこかへ出掛けるつもりだろうか?
「詰めればいいんだな?」
「力任せに押し潰すなよ。適度に加減しろ…お前には難しいか」
「それくらいできるわ!」
 そんな遣り取りをしながら、真田はぎこちない手つきで重箱に白飯を詰め込んだ。二度目の「それも適度に加減しろ」という頼りになるのかならないのか解らない助言に従って、その上に梅干を幾つか載せると(さて柳は数のことを言ったのか配置そのものについてなのか。何事にも常に正確な彼のアドヴァイスは、時々どういう加減でか妙にアバウトになる。だが真田にはちゃんと通じているのだろう)、日の丸弁当の豪華版(主に重箱、そして梅干の数)が見事に完成した。ますます満足げな表情の真田に向かって、柳生はぱちぱちと手を叩いた。
「お見事でした。…しかし持ち運ぶならどちらかと言うとサンドウィッチを作った方がよかったのでは?そのお重なら扱いにも気を遣うでしょう」
「弦一郎に何を期待している?お前とは神経の太さも器用さも違うぞ」
 やれやれと肩を竦めながら麗しい友情でもって柳が冷笑し(あぁ、その口調もその内容も真田を小馬鹿にしているとしか思えないのに、なんて情愛のこもった言葉だろうか!)、真田はムッとした顔で反論した。
「パンはいかん。やはり米だ。幸村にはもっと米を食わせるべきだと俺は常々思っているのだ。放っておくとすぐに食うのをサボるからな」
「…幸村君とお出掛けでしたか。いいですね」
 ふっと湧き上がってきた仄暗い感情を必死で心の奥に沈めようと努力しながら柳生は相づちを打った。
「いいも何も、約束などしていないらしいぞ。単なる押しかけだ。全く迷惑極まるな―俺はもう寝る」
 わざとらしく欠伸などして、その割には使えとでもいうつもりなのか、風呂敷を残して柳は調理室を出て行った。
「蓮二め、朝っぱらからもう寝る≠ニは何たる言い草だ、いずれ根性を叩き直してくれるわ!」
 真田は真田でぶつぶつ言いながらもちゃっかりとその風呂敷で重箱を包み、うむと大きく頷いた。準備は完了したらしい。
「そうだ、真田君」
 ふと思いついて、柳生は提案した。―せめてもの罪滅ぼしだ。
「私もこれから外出するんです。車を呼びましたから、よろしければご一緒に乗って行きませんか?お弁当はあまり揺らさない方がいいと思いますよ」
 一瞬の沈黙。そして真田は「そうか。よろしく頼む」と大らかな物言いで軽く頭を下げた。
「…どういたしまして」
 目を逸らしながらかろうじて一言、そう返すのがやっとだった。真田が眩しく見えて堪らなかったから。



 真田が幸村の下宿の玄関に消えるのを待たずに柳生は車を出させた。万が一にも幸村と顔を合わせたくはなかった。やや乱暴にシートに背中を預けながら運転手に本来の行き先を告げる。動き出した外の景色を見るともなしに眺めながら、柳生はまたあの不埒な憧憬を思い返した。もしも覚醒しなかったら一体どんな狂宴が続いたのだろう。勿論一度きりの迸出で満足しよう筈はない。むしろもっとエスカレートして―後先構わず放埓の限りを味わい尽くそうとしただろう。たとえば四つん這いの獣のような姿勢で後ろから幸村にのしかかり、これ以上ないほど深く奥を貫きながら幸村の波打つ髪を激情に任せて引っ張るだとか、逆に優しく優しく羽根のように軽い愛撫で幸村を燃え立たせ、だが決して絶頂には導いてやらないまま焦らして苦痛と快楽の間の混沌に突き落として泣かせるだとか―いや、それともいっそ、あの口に。
 柳生は幸村の不思議な微笑をまざまざと思い描いた。
 何があっても微笑みを絶やさない、妖しく人を惑わせるあの口に、自分の怒張をねじ込み丁寧に舌を使わせる。根元まで呑み込ませて喉の奥まで突き、犯す。耳の付け根を掴み、頭を前後に揺すって、ただひたすら自分の肉体の快楽の為だけに奉仕させる。
 …仕方がないのだ。愛してはいけない人なのだから。既に他人のものだということはさておき、自分には誰かを愛する資格などない。家を護ろうとするなら、時には人の情を捨てねばならない。血の繋がった家族さえ裏切り、騙し、陥れる。そんな世界に、そして自分に、愛などあるものか。それでも幸村は特別だから、せめてひと時の快楽でいい。思い出でいい―妄想でいい。

 重く感じられる体を引き摺るように、柳生は車を降りた。小ぢんまりとした石造りの教会、ここが目的地だった。これからミサが執り行われる。柳生は正式に洗礼を受けた信者ではないが、神父の言葉に耳を傾けるだけで心が洗われる気がして、日曜の朝には好んで通い、喜捨しているのだ。
 いつものように礼拝堂へ足を向ける。その途中でふと柳生は目を上げた。屋根から伸びた十字架が、初冬の薄い青空を目指して堂々と伸び上がるかのようだった。―幸村を連想させるその凛々しさに心を更に翳らせながら、柳生はまた歩きはじめた。

家族の肖像


八百屋にて

 今年は家族全員で新年を迎えられる。
 弦一郎は息子と手をつないで一歩前を歩いて行く妻の背中を眺めた。ベージュがかって、少し温かみを帯びた色合いの白いコートは、昔、自分が贈ったものだ。流行にうるさい二人の娘には“他にもいっぱい持ってるんだから、いい加減別のにすれば?”などと言われているようだが、年末の買出しの時にはいつもこれを着ている。決まりのようなものだ。
 大掃除、買い物、夜はご馳走で、紅白歌合戦を見て、年越しそばを食べる。それと同じだ。家族の数は少しずつ増えたが、大晦日の過ごし方は昔から何一つ変わらない―変わらなかった。幸子が病気で一年の半分以上を病院で過ごした去年を除けば。一時は最悪の事態さえ、脳裏を過ぎったものだが。
「赤也、人参買おうね。食べられるようになったんだもんね」
「でも急にニンジンいっぱい食べるようになったから、ウサギさんみたいに赤目になっちゃうんだってリョーマに言われた!俺、赤目になりたくないもん!」
「ふふ、何言ってるの?おみかんを食べ過ぎるとお手々が黄色くなるのは本当だけど、ウサギさんのお目々は人参を食べ過ぎたからじゃないよ。ほら、ルビーみたいな赤じゃない。人参のオレンジとは全然違うでしょ?」
「そ…そうかな…」
「そうだよ。それに赤也の赤目はおじいちゃまに似たからだよ」
「おじいちゃん!?そうなの!?」
「うん。知らなかった?おじいちゃま、怒る時はものすごい赤目になってるよ」
 妻子がそんな風に楽しそうに話をする姿が、普段厳しすぎるほどいかめしい弦一郎の表情を僅かに微笑みに似た何かに変えた。
「じゃ、いっぱいニンジン食べる!そうだ!!」
 息子が、何かいいことを思いついたようにぴょんぴょん跳びはねた。
「俺がニンジン食べられるようになったからお母さんの病気が治ったんでしょ!?じゃ、これからも食べたらもうお母さん、病気にならないよね!?」
 妻の長い睫毛がぱちぱちとせわしなく閃くのが見えた。間違いない。全く想定外のことを突然言われたときの反応だ。
「それ、誰が言ったの?おじいちゃま?雅ちゃん?それともブンちゃん?」
「お父さん!!」
 頼むから言ってくれるな、と願っていた弦一郎の祈りも虚しく、息子は自信満々に叫んだ。
「ふぅん。そうなんだ」
 妻が顔を上げて自分の方を向いた。普段は浮かんでいるはずの笑顔がどこにもなかった。まったく、何の表情も読み取れない。弦一郎は咄嗟に顔の前で両掌を合わせ、息子についた嘘のことを無言で謝った。
 突然、妻は笑顔になった。付き合いが長いからよく解る。それが、本当に嬉しい時のものだ、と。そして彼女はゆっくりと膝を折って息子に顔を寄せた。「そうだよ、赤也」という声が聞こえた。白い手で子供の柔らかそうな頬を挟んでむにゅむにゅと動かした。眩しいほどの笑顔で言った。
「赤也が人参食べられるようになったおかげだよ。ありがとう。もう病気になんかならないからね」
 息子が妻の首に両腕を回して抱きついた。
「久しぶりに抱っこしようか」
「いいの!?大丈夫!?」
「平気だよ。知ってるでしょ。お母さん、強いんだから」
 ふふふと笑いながら、妻は近頃随分と大きくなった息子を軽々と抱き上げた。そもそもが、その綺麗な顔からは想像もつかない豪腕の持ち主だ。もうすっかり元通りだ。弦一郎はしみじみとそう思った。
「よし、じゃあいっぱい人参買うよ。じゃがいもと玉ねぎも買って、カレーも作ろうね」
「やったぁ!カレー大好き!」
「そういうことだから」
 妻が弦一郎に顔を向けた。
「重いだろうけど、荷物、よろしくね」
「任せろ」
 弦一郎は深く頷いた。



「まずじゃがいも20キロと玉ねぎ20キロと人参10キロ。ケースで」
 幸子、と弦一郎は遠慮がちに口を挟んだ。
「少々、量が多すぎるのではないか?」
 返事はなかった。
「かぼちゃと白菜とキャベツ5個ずつ。あ、大根も要るよね。うーん、それも5本お願いします」
 目の前に積み上げられるダンボールと重そうなポリ袋。弦一郎の目の前は真っ暗になった。
「お雑煮用の小松菜と…あぁ、そうそう」
 嬉しそうに妻は言った。
「なめこ!なめこのいいやつ、いっぱい下さい」




赤目の理由

 弦一郎の体内時計は常に正確に時を刻む。今朝もきっちりといつもの時間に目を覚ました。
 暑くもなく寒くもない、体を動かすにはもってこいの非常に快適な季節だ。目覚めの心地よさに任せてすぐにでも飛び起きたいところだったが、弦一郎はそこで敢えてゆっくりを意識して匍匐前進の要領で布団から抜け出した。隣で幸子が眠っている。起こしたくはない。
 布団から出たところで、弦一郎は体をうつ伏せの姿勢から一旦正座の状態にし、妻の様子を窺った。軽く規則正しい寝息が続いている。障子越しに入ってくるあるかなしかの朝の光にぼんやりと浮かび上がる幸子の顔に、不安や苦痛の影は見えなかった。眠っていても、起きているときと同様にどこか微笑んでいるようにも思える。この眠りを護る事こそが己の重要な使命だ、と日々心得ている彼は、そのいつもと変わらない姿に満足して再びもそもそと一人で動き始めた。


 子供の頃からの習慣である朝のランニングに行こうと廊下を玄関に向かっていた時だった。襖の向こう、茶の間で微かに何かの気配がする。神経に障る、不愉快な感覚だ。機械の発するほんの僅かな振動―テレビがついている。音声は聞こえなかったがはっきりと解った。ムッと弦一郎は顔をしかめた。
 テレビをつけっぱなしにするとはだらしがない。義父だろうか?それとも幸子か。(少なくとも赤也ではないと思いたい。)そもそもこの家の人間は夜更かしがちなところが欠点だ。遅くまで本を読んだりテレビを見たりした挙句に片付けもそこそこで寝てしまう。それでも弦一郎が「子供の教育のためにならないから」と口を酸っぱくして言い聞かせたのが効を奏したのか、最近では昔ほど酷いことはなくなっていたのだが。
 いかん、と弦一郎は思った。後で注意しておかねば―まぁ、あくまでさりげなく、だが。
 しかしまずはテレビを消しておこうと襖の引き手に手を掛け、引いた。
 そして次の瞬間、目にしたその光景に驚いて、踏み出しかけた足を思わず下げて後ずさった。
「…義父上…何を…」


 真っ暗な部屋の中では確かにテレビがついていた。だがそれだけではない。テレビの前に蓮二がどっかりと座り込んでいた。両手に何かを持っている。忙しなく動いていた指が止まって首が回り、顔が弦一郎の方を向いた。珍しくカッと両眼がいっぱいに見開かれてはいるものの、義父はまったくの無表情だ。認めたくはないが―怖い。
 内心の動揺を相手に気取られないよう押し隠しながらテレビ画面に目を向けると、ちょうど何かがゆっくり動いた。見たところ、不気味な西洋風の城の中だ。大広間に影のような化け物がうようよと蠢いている。画面の中央に細身の刺突剣を手にして倒れ伏した金髪の男も見える。これがさっき動いたものの正体だろう。つまりはあれだ。蓮二は夜通しゲームに興じていた、ということだ。
 弦一郎ははぁと大きく溜息をついた。情けない。全くもって情けない。年甲斐もなくゲームにうつつを抜かして夜明かしした義父は勿論だが―そんな彼に(いくら予想外のことだったとは言え)一瞬恐れをなした自分が。こんなことでは到底幸子を護れない。弦一郎は一気に爽やかに明けゆく初夏の朝に似つかわしくない暗い気分になった。…鍛え直さねば。
 そんなことを思いながら蓮二に声を掛けた。
「朝です、義父上」
「…そのようだな」
 蓮二の声は普段から滅多に感情がこもらない。顔を見ても声を聞いても、余程慣れていなければ細かな趣きを量るのは難しいのだ。だが今朝の弦一郎には解った。蓮二には何か言いたいことがあるらしいことが。だからすぐにでも出て行こうとした足を止めて、暫し待った。
 予想は的中した。
 まるでいつもとは別人のようにどうにも言いあぐねた様子で「弦一郎、その」と言いかけた蓮二はうな垂れた。
「…幸子にはくれぐれも内密に願いたい」
 解っています。
 そうと口にはしなかったが、弦一郎は蓮二を安心させるように大きく頷いてみせた。気持ちは痛いほど理解できる。もし自分が義父と同じ立場だったら(いや、俺はゲームなど絶対せんだろうが、となぜか慌てて自分自身に言い訳をしつつ)やはり恥を忍んででも同じことを言っただろうと思う。幸子に呆れられたり…あまつさえ嫌われるかもしれないと考えただけで絶望の淵に叩き落されたような気分になるからだ。だから弦一郎は口を開いた。
「武士の情けは存じております、義父上」
 そして付け加えた。
「しかし幸子が起きてくる前に何とかした方が…目が充血して真っ赤だ」


 おやつにしようと呼びに来た幸子について行くと、何やら派手な音楽と共に興奮しきった赤也の高い声が弦一郎の耳に飛び込んできた。
「スゴイ!スゴイスゴイ、おじいちゃん!!どうやったらこんな風にできんの!?俺もまだここまで進んでないのに!!」
 蓮二が早速“秘密特訓”の成果を披露していたらしい。大人気ないというか負けず嫌いにも程があるというか―義父の顔を見たら思わず笑ってしまいそうだったので、弦一郎は殊更渋面を作りつつ席に着いた。
「ごめんね。もしかしたら見たいテレビ、あった?」
 幸子が柏餅とちまきにお茶を添えて出しながら少し顔を曇らせたので、弦一郎は慌ててかぶりを振った。いや、そういうわけではない!俺は何も知らん!と、無言で。
「…そう?…あ、柏餅もちまきもまだあるからね」
 完全に納得した風でもなかったが、幸子は深く追及せずに父と息子のおやつも卓に並べて自分も座った。細い指で湯呑みを取り上げ、熱い茶に息を吹きかけつつゲームを続ける二人を見てふふふと笑った。
「お父さんにこんな特技があったなんて全然知らなかった。凄いね」
「うん、スゴイ!おじいちゃんスゴイ!!」
「…そうか」
 流石に蓮二は居心地悪そうに身じろぎをした。やはり“徹夜で練習していました”とは言えないのだろう。
「どうやったらおじいちゃんみたいに巧くなれるかなぁ?」
 赤也のキラキラとした瞳に見つめられ、蓮二は遂にコントローラーを放すと茶に手を伸ばした。画面の中の人物がばったり倒れた。
「あっ、やられちゃった!せっかくここまで来たのに…」
「練習しろ、赤也」
 弦一郎は息子に言った。赤也の、そして幸子と蓮二の視線が弦一郎に集まった。
「練習すればちゃんとお前にもできるようになる。そうでしょう、義父上?」
「…そうだ。弦一郎の言う通りだ」
 同意した蓮二の声音には確かに安堵の響きがあった。
「じゃ、俺頑張る!でも解んないとこ教えてね、おじいちゃん!」
 赤也はまた嬉しそうに笑った。弦一郎は釘を刺した。
「だがゲームは一日一時間だ。いいな、赤也」
「えー!?」
「そうだよ。おめめが悪くなると困るからね」
 両親にそう言い付けられた赤也は不満そうな顔で自分のおやつを食べ始めた。幸子が何故かまたふふふと笑った。
「好きな時に好きなだけ遊ぶのは大人の特権だよ。ね、お父さん?…そうそう、あとで使った目薬、補充しておいてね」
「!」
 蓮二が食べかけていたもちを喉に詰まらせた。




おててをつなごう

 おやつを食べ終わったらでいいからハンドクリームをつけなさい、とお母さんに言われた義弟が「ベタベタするからやだ!」と言い返したのが聞こえた。反抗期にはまだ少し早い気もするが、ジャッカルにはその気持ちも解らないではない。ハンドクリームをつけるだなんて、何となく女の子っぽい感じがするではないか。カッコいいヒーローに憧れるお年頃の義弟にしてみれば、反射的に"そんなのやだ!"と思ったとしても無理はない。
 だが母は一枚上手だった。(まぁあの義母は常に切原家最強の座に君臨している。あらゆる意味で)
 「そう?」と少し困ったように首を傾げ、「お母さん、おててがガサガサの人と手をつないで歩くのイヤだなぁ」とまるで独り言のように呟いてみせたのだ。効果はまさに絶大だった。
 赤也は食べかけのビスケットもそこそこにぴょんと椅子から飛び降りると、ハンドクリームのチューブに突進した。そのあまりの現金さに、ジャッカルは危うく噴き出すところだった。

 それだけならまだ、母子の微笑ましい風景ですむはずだった。問題は、その時、ダイニングと続きになっている茶の間には将棋盤を挟んで角突き合わせているデカくていい年をした男二人もいて、どちらもしっかりくだんの話を聞いていた、ということだ。

 帰る途中でちょっとした買い物を思い出したジャッカルは、目に付いたドラッグストアに寄ろうとした。店の前の駐車場に足を踏み入れてふっと前を見ると、見覚えのありすぎる長身が自動ドアから出てくるではないか!「少々用事が」と言い置いて出掛けた義父だ。別に疚しいことをしたわけではないが、咄嗟に隠れてしまうのは日頃の習い性というやつだ。しかし弦一郎がその手にぶら下げた半透明の小さなビニール袋と、袋の中身を見たジャッカルは、今度こそ思わず噴き出した。
 どこかで見た覚えのある青いチューブが一個。まさにさっき赤也が使っていたハンドクリームに違いない。左右2.0の視力は伊達ではないのだ。
(…もしかして、義母さんと手ェ繋ぐ気満々なのかよ…)
 笑い半分、呆れ半分で義父を見送ったジャッカルは、最後にひとつ溜息をついて店に入った。

 品揃えの豊富な店内をぐるぐると回っている内に、ジャッカルはまたもやよく知る人物が店に入って来るのを見つけた。今度は義理の祖父の方だ。こちらも背が高いからやたらと目立って存在感がある。すたすたと迷いのない足取りで蓮二が向かう先を眼で追うと、とあるコーナーでぴたりと止まった。―ハンドクリームの売り場だった。
 一点一点を手にしてはじっくりと眺め(多分成分表示か何かを熱心に読んでいるのだ)、テスターを試して、慎重に吟味を重ねた結果、彼も買うものを決めたらしい。黄緑色をしたパッケージのハンドクリームを持ってレジへと向かった。
 ジャッカルはひとり唖然としてその様子を見守っていた。
「…アンタもかよ…」
 うっかり呟きが漏れた。呆れる。だが―
(微笑ましいっつーか…ちょっと羨ましい気もするな)
 ついついそんなことを思ってしまうのも本当のところだ。

 だからジャッカルはさっきまで祖父が立っていた…そしてその少し前には父が居たであろう棚の前に歩み寄った。ざっと眺めて何となく気に入った黄色いボトルのクリームを、自分の買い物カゴに放り込んだ。

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[ 備考 ]
幸村中心の真幸&柳幸と8←2がメイン。
時々柳生→幸だったり、シリーズによっては何だかよくわかんなくなってることも多し。

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グランロマン
Grande Romance

裏幕3-1

 幸福な抱擁というのは案外、ただ限りなく静かなものなのだ。
 互いに互いがすぐそこにいることを知り、時には相手の心臓の鼓動を皮膚で感じる。言葉は勿論、くちづけのひとつ、恋人の体を探る指も要らない。ただぴったりと寄り添い合ったまま同じ時間を過ごす、それだけのことでも真田は充分な幸せを覚えた。
 だが幸村は「今日は君の誕生日だから」と言い張って聞かなかった。ならば折れるしかあるまい。正直言って尻に敷かれている≠ニいう自覚はある―と、いうよりは幸村には誰も勝てないと考える方がプライドは傷つかないわけだが。
 幸村は何よりも気高く光る星だ。そしてその気儘さゆえにより輝きを増すのなら、好きなだけ好きに振る舞えばいい。どんと構えて見守り、時には黙って後について行くのも男の度量というものだろう。それに、まぁ…
 真田は幸村をちらりと見上げた。幸村はさっき真田を押し倒した時のまま馬乗りになって、楽しそうに浴衣の合わせ目から手を入れて真田の体のあちこちを適当にまさぐり、或いは首筋に舌を滑らせてみたりして遊んでいる。
 偶にはこういうのも悪くはない。
 そう結論付けた真田は、恋人の悪戯に身を委ねた。飽きたらきっといつものように自分を愛撫するように要求するだろう。その時になったら望みどおり、たっぷりと愛してやればいい。そんなことを考えたせいもある。

 真田の目論見はやや外れた。
 幸村の悪戯はなかなか止まず、却ってエスカレートしはじめたのだ。浴衣の帯を取り去られ、身頃をすっかりくつろげた無防備極まりない状態にされて初めて、真田は危機が迫っていることに気付いた。
「ふぅん、思ったより楽しいねぇ」
 幸村の声にはどういうわけか、確かに嗜虐的な響きがある。真田はそれを敏感に感じ取った。今や間違いない身の危険と共に。
「もういいだろう、幸村」
 後は俺に任せろ、と言いつつ体を起こしかけたが、すかさず喉をぐいと押さえられて、真田は布団に沈み込んだ。如何せん喉は人体の急所のひとつだ。
 冷ややかに座った目で幸村は宣言した。
「今日は俺がやる」
「や、やる…?」
 言葉の意味するところが理解できず、真田は慄(おのの)いた。よもや本当に貞操(?)の危機…!?
 そんな真田を気にも留めず、幸村は先ほどとは打って変わって天使のようににっこりと微笑んだ。
「俺、頑張るから。でもやっぱりちょっとは不慣れだからさ…」
 暴れたら見当が狂って、血を見るかもしれないよ。
 真田はこくこくと頷いた。まな板の上の鯉の気持ちが心の底から理解できたと思った。せめてこの経験を舞台で活かせる日が来ればいいのだが、果たしてそんな芝居はあるだろうかと半分現実逃避をしつつ。



 さっきから指先で執拗にこりこりと片方の乳首を擦り続けているのは、もしかするとそれをもぎ取るつもりだからではないのか。
 そんな疑いを抱く余裕も既になかった。
 度重なる刺激で痛みすら感じ始めたはずなのに、どうなったかを確かめるように指が外され、ちろりと舐められたその瞬間には快感のようなものを覚えるのが恐ろしいのだ。気を抜いたら鼻からとも口からともつかず、あらぬ声が漏れ出そうだ。それだけはならん。ああいった類の声は、たとえば幸村のような可愛い者が立てるからこそ耳に心地 よく一層感興をそそられるものなのだから。
 真田はその一念で必死に耐えた。
 逆効果だったようだ。
「ねぇ、まだ気持ちよくない?」
 不思議そうな面持ちで顔を覗き込んできた幸村は「じゃ、こっちは舐めてみるね」と今まで比較的無事だったもう一方を突付きながらやはり楽しそうな様子で言った。
 器用な幸村にはさっきまでと同じ指での責めを続けながら、反対側は口で弄ぶという芸当など容易いものらしい。その上舐めてみる≠ニいった単純な動作に留まらず、舌先に力を込めてぐにぐにと押し潰してみたり、或いは唇で挟んで引っ張ってみたりと実にさまざまなことを試しているのだった。
 しかも認めたくはないことではあったが、それが、どうも段々―
 真田が我慢しきれずに立てたうぅ、と明らかに上擦った声を聞いて、幸村はいっそ無邪気と言いたくなるほど喜んだ。
「あぁ、いいんだ?…こっちもやっと起きてきたみたいだな」
 首を曲げて後ろを見やった幸村の視線の先に何があるのかは見なくても解る。すっかり気恥ずかしくなった真田は自分のペースを取り戻そうとした。今度はこっちが幸村を気持ちよくしてやる番だ。そして起きてきた≠烽フを存分に使わせてもらう。
 そう思ったのに、真田が体を起こすより先に幸村が動いた。それ≠しっかりとしか言いようのない具合に握り込んだのだ。未だかつて、幸村がこんな態度に出たことはない。驚きと、勿論強すぎる刺激とで思わず真田の呼吸が止まった。ついでに思考も。
「今日は俺がやるって言ったじゃないか」
 幸村は聞きわけの悪い子供をたしなめるようにそう言うと、体の位置をずらした。伸ばした真田の両足の上に座り込んで、本格的にペニスを弄りはじめる。きゅっきゅっと強弱を付けて握られたかと思えば上下に擦られ、そうでなければ親指が突起の先端を円を描くようになぞる。くるりくるりと、何度も。時々思い出したように袋を掌にのせてはあやすようにやんわりと揺らし、息を吹き掛けられもした。
 真田は防戦一方だった。溺れる者は藁をもつかむ、という具合に両手で敷き布団をきつく握りしめながら。
 しかしそれでは防げないものがある。
 音だ。
 どう考えても面白半分に遊ばれているからには、意地でも反応したくないと思う心とは裏腹に、いつの間にか幸村の手の中で堅くそそり立ったそれは、ひっきりなしに汁を流し出した。幸村の手で擦れる度に小さく、しかしねちゃりと変に耳につく音がする。「ずいぶん濡れてきたな」と言う幸村の声がまた、一層真田の屈辱を煽るのだった。無論、いつもとはまるで違った快感を味わっているという事実そのものも。

 幸村が不意に手を放した。
 絶え間なく続いていた快楽から自由になった真田はほっとした。このままでは一体どうなっていたか解らない。みっともなく「もっとして欲しい」などと口走るかもしれない。そう思ったのだ。中途半端なところで放り出されて不満だ―そんな本音をぐっと押し殺して。
「気が済んだか」
 息を整えつつ、真田は何とかそう尋ねた。
 幸村は興奮しきった真田自身をまじまじと見つめていた。真田の問いは聞こえなかったのか、それとも最初から答える気などさらさらないのか。暫しの後、幸村は呟いた。まるで「明日は雨かなぁ?」とでも言う時のようにのほほんとした調子で。
「こうして見ると、思ったより大きい気がする。全部入るかなぁ」
 …意味は解らないが、嫌な予感がする。
 そう真田が直感した瞬間、幸村はがばりと真田の足の間に顔を埋めた。一瞬遅れて真田の脳天に電流のようなとしか形容のできない鋭い痛みが走る。
 いや、痛みのように感じたのは、紛れもない快感だった。幸村の温かい口内にすっぽりと呑み込まれた、初めて受けるそのあまりにも大きい刺激と精神的な衝撃を痛みと勘違いしたのだ。そう気付いた時には耐え切れずにくっ、と呻き声が漏れ出た。そうしたら、もう遂に声を抑えることができなくなってしまった。
「ん…あぁ、幸村…あ、あ…」
 必死な声だ、と意識の隅っこの方では思ったのだが、止まらない。それどころか無意識の内に、真田の両手は股間で蠢く幸村の頭をぐしゃぐしゃと撫で回して、自分の悦びがどんなに大きいかを彼に伝えているほどだった。
 幸村は頭を前後に振り、喉の奥まで恋人のペニスを迎え入れては唇で絞るようにしながら出すという動きを繰り返していたが、ご丁寧にも円を作った二本の指で根元を縛(いまし)めてから一旦口を放した。
「どう?」
 涼しい顔でそんなことを聞く。答えなど解りきっているだろうに。真田は荒い息のまま、力なくただ頷いた。さっきまで極上の鞘に収められていた自分の刀身が、もう一度そこに入りたい、そしてできればその温もりの中で力を解き放ちたい、と叫んでいるような気がした。願わくは、できるだけ早く。
 ちろり、と幸村が先端部に舌を走らせた。真田の腰がびくんと跳ねたのを見て、ふふふと笑った。悪魔のようだ。
 決して指は緩めないまま、幸村は口戯を続けた。雁首に沿って舐め、或いは亀頭を口に含んで舌と顎で挟み込んで刺激し、そしてまた付け根までを焦らすようにそろそろと呑み込んで…
 深く呑み込む時には幸村自身も、気に入ったところを刺激された時に出す甘ったるく鼻に掛かった声を立てていたから、彼の方もこの行為を楽しんでいるのだろう。ならば好きなだけ遊ばせてやりたいところだ。
 しかし真田もそろそろ我慢の限界だった。幸村の責めに合わせて自然と腰が揺れ、放出のタイミングを求めている。
「もう、駄目だ…」
 切羽詰まった真田は幸村の肩に手を伸ばし、体を離そうとした。うまくいかなかった。それどころか、幸村は慌てたようにペニスの中ほどまでを口内に収めてから唇にきゅっと力を入れた。射精を留めようとしていた指は緩め、代わりに支えるような形で手を添えた。
イってもいいよ≠ニでも言うつもりか?まさか。このまま…口の中にか?
 混乱する真田をよそに、幸村の舌は小刻みに鈴口を刺激して紛れもなく放出を促しはじめた。
 それでもまだ躊躇いが残る。そんな真田に呆れたのか、幸村はそこで一切の動きを止めた。温かく湿った粘膜に優しく包まれる快感だけが残った。真田の分身を咥えたままの幸村が上目遣いで真田を見る。にっこりと目が微笑んだ。それはなんともエロティックな光景だった。再び射精の衝動が真田を襲った。次の瞬間、幸村は思い切りペニスを吸い上げた。
 もはや止めることなど不可能だった。



 幸村がうがいをする音が、聞きたくなくとも聞こてくる。どんな顔で迎えればいいのか解らず、真田はやきもきと布団の上で待った。半ば幸村に強制された形とはいえ、口淫というのは醒めた後どうにも気恥ずかしい。
 さっぱりした顔で洗面所から戻ってきた幸村は、機嫌よく真田の隣に滑り込んだ。真田は大いにほっとして彼の肩をしっかりと抱き、迷った末に一言、ありがとう、と伝えた。
「誕生日だからね」と答えたのは、多分「毎回こんなサービスはしないよ」という意味でもあるのだろう。だが今の真田にはそんなことよりも、そう言った幸村のその口に、ついさっきまで自分のものが入っていたのだと考えてしまうのを止めることの方が重要な問題だった。既に意識せぬまま、しげしげと幸村の唇を見つめていたらしい。
 ふふ、と幸村は笑った。
「まだして欲しい?」
「いや、その…そういうわけでは」
 咄嗟に否定はしたが、ぴったりとくっついた体から生まれる熱と幸村の髪の匂いとが、確かに再びぐらぐらと真田を加熱するようだった。
「…じゃ、今度は俺のこと気持ちよくしてみるかい?」
 そう囁く魔性の唇に反対する理由はなかった。
 真田はゆっくりとそこに自分の唇を押し当て、そして丁寧に幸村の体を仰向けに横たえた。


07272145

そもそもユニットバスというのは使い慣れない。そのうえ何の因果か、揺れる。甚だしく不愉快に。
そういうわけで、折角風呂をつかった後だというのに日頃の爽快感はまるでなかった。
真田がなんとなく損をしたような気分でその狭いスペースから船室に戻ろうと足を踏み出した時に、また船は酷く揺れた。
「おっ…と…」
咄嗟に壁に手を突いたことで、転ぶのは免れた。よかった。今、同じ部屋には幸村がいる。みっともなく派手に転ぶ姿など、断じて見せられない。
真田はちらりと幸村の様子を窺った。ベッドに横たわって静かに本を読んでいる。その寛いだ姿からは、今の状況に対する動揺や恐れなどは見られない。いつも泰然自若として大らかに事態を見守るのが彼の常だ。
―少しは怖がる素振りぐらい見せてもいいものを。そうすれば、俺がついているから大丈夫だと安心させてやれるのに。そうすれば…うむ、手くらい握れるかもしれん。
だが真田のそんなささやかな望みが叶う日など、なかなか来そうにはなかった。
「折角だから俺も大浴場≠ノ行けばよかった。傾く風呂に入るチャンスなんて、そうそうないからな。大きい方がずっと面白そうだ」
そう言った幸村は、明らかにこの状況を楽しんでいるからだ。
「転んで怪我をするかもしれん。まだ狭い方がマシだ。それにしても、船はどうも揺れるのがいかんな」
控えめに反論した真田の言葉の中で、なぜか幸村は「揺れる」という単語にだけ反応した。
「船が揺れるのは当たり前じゃないか。飛行機だって揺れる。電車も揺れる。馬だって揺れるし、歩いたって揺れるさ。つまり旅に揺れは付き物ってことかな」
「…うむ」
「だとしたら」
幸村は何かいいことを思いついたらしく、にっこりと晴れやかな微笑でベッドの脇に近寄ってきた真田を見上げた。
「人生っていうのはつまり、揺れるってことだ」
「………何?」
いきなり話が飛んだ。真田は顔をしかめて幸村をまじまじと見つめた。幸村の話の突拍子のなさにはいいかげん慣れたつもりだが、それと話の意味が解るかどうかは別問題だ。次元が違う。
「ほら、『おくのほそ道』。人生は旅だよ。旅が揺れるっていうなら、つまり人生も揺れるってことになるだろう?」
真田は頭の中で幸村の挙げた古典の序文を諳んじた。だが別に件の紀行文は人生とは旅である≠ネどと、大上段に構えているわけではないと思う。幸村の古典解釈は斬新なのか大雑把なのか、時折非常に悩むところだ。
何と言葉を返すべきか迷っていると、一際激しく船が揺れた。
「おぉっ?…いかん!!」
悩んでいたところを不意に襲った今度の揺れには、反射神経の優れている真田も反応できなかった。よろめいた弾みに足がもつれ、倒れこんだ。あろうことか、幸村の上に。思いっきり覆いかぶさった状態だ。
万が一、誰かに見られようものなら完全に破廉恥な場面だと誤解される!いや、誤解ではない!俺と精市は、その…す、好き合っている間柄だし、それに関しては何の疚しいところもない!!だが今は合宿中。立海大と幸村の名だけは辱めないよう部員を統率すべきこの俺が風紀を乱すようなことなど…しまった、こんなことを考えるより先に、早く起き上がらねば!!
そんな具合に気だけは焦るものの、激しい揺れがそのまま続き、それもままならない。
「す、すまん!」
「…そういうこと言わないでくれないか」
幸村はそう言いながら、ゆっくり手を伸ばして真田の頬に触れた。
「折角どきっとしたのにさ」
「う…」
好きな相手に至近距離でそんな風に意味ありげなことを囁かれては、流石の真田も我慢ができなかった。おそるおそるではあったが、幸村の白い頬にそっと唇を落とした。途端に湧き起こる幸福感でめまいを感じる。(揺れのせいではないと信じたい。)ふふ、とくすぐったそうに幸村は笑い、なんとそのまま目蓋を閉じたではないか!
真田はその珍しい…いや、可愛らしい反応にすっかり力を得た。扉の外、廊下が何やら騒がしくなってきたのがやや気に掛かるが、今はそれどころではない。というか、普段から真田には幸村とテニス以上に大事なものなどない。他のことは取り敢えず後回しでいいのだ。
どきどきと打つ心臓の音を変に意識しながらも、今度は幸村の唇めがけて突撃しようとしたちょうどその時だった。
短く鋭いノックの音が3回。鳴り終わりとほぼ同時に開いたドアと、乱入してきた人影。
「精市!弦一郎!非常事態………だ」
「なっ!?何事だ!いや、まずドアを閉めろ!」
「非常事態って?ちょっと騒がしいなとは思ってたけど」
うろたえる真田とはまるで対照的な平静さで、幸村は柳に尋ねた。一瞬出鼻をくじかれた柳の方も、立ち直りは速かった。立ち直りのスピードのみならず、事態の把握に関しても並々ならぬ素早さを見せ、ドアをきっちりと閉めると二人のもとへやってきた。
「お前たちも非常事態か」
「いや、その…」
真田は口ごもりながらも何とか立ち上がって、もうひとつのベッドに移り、腰掛けた。
「なんか今日はいつもよりときめくっていうか、どきどきするんだよね」
「それは俗に言う吊橋効果≠セ。恐怖心ゆえに普段より上がった心拍数を、恋愛のどきどきと勘違いしているだけだ。これ自体とは全然、まったく、さっぱり無関係だ」
「これ自体とは何たる言い草だ!それにそんなに強調するほどのことか!?」
真田は、さっきまでの気まずさも忘れて吼えた。
「なんだ、そうなのか。がっかりだな」
「精市!そこでがっかりするな!」
「それよりな」
真田を無視して柳は用件を切り出した。船が座礁するという怪情報が出回っており、皆浮き足立っているらしい。真偽のほどは定かではないが、救命ボートで避難するなどという話も出てきている。万が一のことがないとは限らない、自分たちも何らかの準備だけは始めた方がよかろう―と。
「まさか」
幸村は柳の提言を一笑に付した。
「このクラスの客船が救命ボートで避難する事態に陥るだなんて、ちょっと考えられないな。嵐の中にボートで漕ぎ出す方がよっぽど危険だよ」
「だが、蓮二も万一、と言っているだろう。備えておくに越したことはないと思うが」
「そんなことになったら、乗組員の誰かや先生方から指示が来るはずだ。流言に惑わされることはない」
自信に満ちて断言する幸村に、柳はそうか、と頷いた。
「柳生と仁王が情報収集に当たっている。何かあれば報告が…」
「大変です!!」
突然開いたドアから切羽詰った柳生の声が響いた。なぜかその後で、激しいノックが4回。まるで「皆さん、私に注目してください!」とでも言っているかのようだ。だがそうでもしないと、今までとは比べものにならないほど騒がしくなった廊下の喧騒に負けてしまっただろう。異様な騒々しさだった。
「青学の皆さんがボートでの避難を開始しました!」
「六角もじゃ。けど正直、俺はあんな暗い海に下りとうないのぅ。ちらっと見ただけでも、ぐらぐら揺れよった。ありゃ敵わん。酔う。つか、既にもうダメ」
仁王も柳生の上着の裾を握り締め、もう片方の手で口元を覆いながら蚊の鳴くような声で言った。その顔面はいつも以上に血の気をなくして蒼白だ。
「仁王君!しっかりして下さい!お気を確かに!」
慌てて仁王の背中をさすりはじめた柳生をよそに、真田たちは対策会議を再開した。
「避難せざるを得ん…か」
「どうする、精市?下船の準備をさせるか?」
幸村は腕組みをして眼を閉じた。蜂の巣をつついたような騒ぎだった廊下のざわめきが、僅かずつ遠ざかっていく。きっと他の学校の生徒たちもそれぞれにボート置き場へ向かっているのだろう。
「仕方がないな」
溜息混じりに幸村が上体を起こした。
「弦一郎、ブン太たちに荷物をまとめてボート置き場へ行くよう指示を頼む。蓮二は赤也を見てやってくれ。柳生たちも準備を。置き場に全員揃ったら避難する。5分でいけるか?」
「任せろ!」「大丈夫だ」「はい!!」「おー…」
それぞれに返事をした四人はそれぞれに散っていった。幸村はまだひとり納得しかねる表情で首を傾げた。
「誰が指示を出した?」
だが自分自身も避難指示を出した以上は、支度を始めなければいけないのもまた確かだった。ベッドから降り、二人分の荷物を軽々と抱え上げて廊下へと歩き出しながらもぽつりと本音が漏れた。
「…何だか気に入らない」

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